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2010年1月

ジャーナリストの土井敏邦さんにイスラエル政府の報道規制 抗議に賛同の呼びかけ

                   【賛同の呼びかけ文と抗議文】

前略

ジャーナリストの土井敏邦です。

ガザ攻撃開始から1年目に当たる2009年12月27日、私は、イスラエル政府の報道規制に対し、公に抗議する決心をしました。

それは一般的な報道規制に対する訴えではなく、私個人への規制が契機となり決意した抗議です。

2009年夏より、私は2度にわたってイスラエル政府によって、プレスカード発行拒否されました。これによって私はガザ地区での取材の道を絶たれました。

しかし、この問題は私個人の問題に終わらず、パレスチナを取材するジャーナリスト全体に関わる問題だと考えています。

下記はイスラエル政府に対する私の抗議文です。

みなさんにお願いしたいことがあります。

私の訴えの趣旨をご理解いただき賛同していただける方は、「賛同人」になっていただけないでしょうか。

「賛同人」になっていただける方は、

1、賛同する(お名前、肩書を公表してもよい)

2、賛同する(お名前も肩書も公表しない)

の二つのどちらかもお知らせください。

*お手数ですが、1の「賛同人」となっていただける方は、例をご参考に書き方をご呈示ください。

例:(名前)土井敏邦/(読み方)どい・としくに/(肩書)ジャーナリスト

                    2010年1月15日

イスラエル政府の報道規制に抗議します

ジャーナリスト・土井敏邦

約1400人の犠牲者、5000人を超える負傷者を出したガザ攻撃から1年が過ぎました。

1985年以来、ジャーナリストとしてパレスチナ・イスラエルの現場を取材してきた私にとっても、これほどまでの破壊と殺戮を目の当たりにしたのは初めての体験でした。

私は、ガザ攻撃の「終結」直後から3週間にわたって現場を取材し、その結果を、NHK番組や岩波ブックレット、また世界報道写真展での映像展示、さらに数々の報告会、集会で伝えてきました。

その一方、2009年春にドキュメンタリー映画「沈黙を破る」を公開し、イスラエル国防軍(IDF)の元将兵たちによる占領地における加害の証言を伝えました。

それから数カ月後の8月下旬、私はその後のガザ地区の実態を取材するため、いつもの通りエルサレムにあるイスラエル政府のプレス・オフィスでプレスカードを申請しました。これがなければ、イスラエルに占領・封鎖されているガザ地区に入れません。しかし当局は、私へのプレスカードの発行を拒否しました。パレスチナ取材を始めて以来、20数年間で初めてことです。理由は「提出されたアサイメント・レター(推薦・委任状)はドキュメンタリー制作会社からのもので、報道機関からではない。ドキュメンタリー制作にはプレスカードを発行しない」というものでした。しかし過去2回、同じドキュメンタリー制作会社「シグロ」のアサイメント・レターでプレスカードは発行されていたのです。ただこの時点で、過去2回の時と違っていたのは、「シグロ」が制作した私のドキュメンタリー映画「沈黙を破る」が劇場公開された直後だったことです。

それから3カ月後の11月、私はガザ攻撃から1年目の実態を取材しようと、再びプレスカードを申請しました。今度は、ある報道機関からのアサイメント・レターによる申請でしたが、また拒否されたのです。理由は告げられませんでした。

その直後、イスラエルの『イスラエル・ナショナル・ニューズ』(11月30日版)が、プレス・オフィスのダニー・シモン代表にインタビューをし、次のように伝えていることを知りました。

「イスラエルは、事実を伝えない反ユダヤ主義のジャーナリストは認めないと語った。シモン氏は、意図的に虚偽を伝え、ハマスの犯罪を隠蔽するための“イチジクの葉”の役割を果たしているジャーナリストたちがいると強調した」

つまり私がプレス・オフィスから「事実を伝えない反ユダヤ主義のジャーナリスト」の1人とみなされたことが、プレスカードの発行拒否の大きな要因の1つと思われます。

しかし私はジャーナリストとして、自分で現場を取材して確認した事実をできうる限り正確に伝えてきました。断じて「意図的に虚偽を伝え」たことはありません。また「ハマスなどパレスチナ側の犯罪を隠蔽する」報道をしたこともなく、むしろ自治政府の腐敗、ハマスの強権支配の実態など、パレスチナ側の負の部分もきちんと伝えてきました。一方、ドキュメンタリー映画4部作『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』では、自爆テロで負傷または犠牲となったイスラエル市民の家族の現実と心情、また“占領”がイスラエル社会の“倫理・道徳観”を崩壊させるという危機感を抱き、“占領”に反対し闘うイスラエル人たちの姿も伝えてきました。

今回のガザ攻撃に関する私の報道も、それが決して偏向したものではないことは、その後のアムネスティー・インターナショナルや国連調査団の報告からも明らかです。その報告はイスラエル軍の攻撃は「深刻な国際法違反」と告発しています。

このように、「パレスチナ側のプロパガンダ」のための報道ではなく、「パレスチナ問題の真の解決のために伝えなければならない事実」を、私は真摯に報道してきました。イスラエルのこのような武力攻撃や“占領”は単にパレスチナ人を苦しめるだけではなく、イスラエル国民の“倫理・道徳観”を崩壊させ、長期的にはイスラエル国民が求める真の安全と平和の可能性を自ら破壊することになると考えるからです。そういう私が「事実を伝えない反ユダヤ主義のジャーナリスト」という烙印を押されることを断じて受け入れることはできません。

プレスカードが取得できないということは、今後、私は取材のためにガザ地区に入れないということを意味します。

学生時代、イスラエルの「キブツ」(農業共同体)に滞在していたときに友人に誘われ、私が初めてガザの難民キャンプを訪れたのは32年前のことです。そこで住民に投げかけられた「君が滞在するキブツは誰の土地だったか知っているのか」という問いが、私の“パレスチナ問題”との出会いでした。

その後、ジャーナリストとしてパレスチナ・イスラエルの取材を開始した1985年以来、私は数えきれないほどガザ地区に通い、取材を続けてきました。第1次インティファーダ(民衆蜂起)以前、インティファーダの真っただ中、湾岸戦争下、オスロ合意の直後、自治政府の登場、アラファト政権下の腐敗、第2次インティファーダ、ユダヤ人入植地の撤退、第2次レバノン戦争下、ハマスの強権統治の実態、封鎖の惨状、そしてガザ攻撃・・・。私は、激しく揺れ動くそのガザの情勢の中に身を置き、占領の下で生きる人びとの生活と声を記録し、伝え続けてきました。ある意味では、私はジャーナリストとして、また人間として、“ガザ”に育てられたといえます。

そのガザの“現場”と20数年間に築き上げてきた“現地の人びととの絆”を、私は今、イスラエル政府によるプレスカード発行拒否によって奪われようとしています。その絶望感は舌筆しがたいものがあります。

ガザ地区の住民たちは長年、“封鎖”という“占領”のなかで、治療や勉学、仕事のためにガザの外に出ることもできず、海外で暮らす家族との再会も果たせない状況が続いています。もちろん、そんな住民の現実の深刻さとその苦悩に比べることはできませんが、私自身もガザ地区から断ち切られるようとする今、その“痛み”のほんの一端ですが、身を持って知った思いがします。

長年にわたって中東問題を伝えてきた、ある親しいジャーナリストは、私にこう書いてくれました。

「イスラエルの介入で取材の場を奪われたジャーナリストとして、つまり、自分をパレスチナ問題の当事者として、その不当性を訴えつつ活動するというあり方もあるのではないでしょうか。私は、土井さんの問題は、『ガザの現状が伝えられなくなる』という問題以上に、重要な問題だと思います。まさに、占領そのものの問題なのですから」

私がプレスカード発行を拒否され取材の場を奪われることは、私自身が“パレスチナ問題の当事者”となることであり、この現実と闘うことは、まさに私自身がジャーナリストとして“イスラエルの占領と闘う”ことを意味するという現実を、私はその言葉に突き付けられ、教えられた思いがします。 しかし、これは私だけの問題ではありません。今後、私のようにパレスチナ側に起こった被害やイスラエル側の実態を報道するジャーナリストは、「事実を伝えない反ユダヤ主義のジャーナリスト」という烙印を押されてプレスカードの発行を拒否され、報道規制を受ける可能性が十分あります。これは明らかに、イスラエルの“占領”に起因する不当な報道規制です。これを看過すれば、今後、パレスチナ側の実態を伝えることが難しくなります。私は、パレスチナの現場を取材し続けるジャーナリストであり続けるために、イスラエルのこの報道規制に対して記者会見、シンポジウムや集会、署名活動などを通して抗議し、正当な報道の自由を尊重するようにイスラエル政府に求めていくつもりです。どうか、みなさんのお力を貸してください。                      2009年12月27日 
                     (ガザ攻撃開始から1周年の日に)

【連絡先】doitoshikuni[at]mail.goo.ne.jp
【ホームページ】 http://www.doi-toshikuni.net/                     
   
土井敏邦 (DOI , Toshikuni)URL : http://www.doi-toshikuni.net/

(コラム「日々の雑感」)『ガザの悲劇は終わっていない』 (岩波ブックレット/7月7日出版)
映画「沈黙を破る」URL : http://www.cine.co.jp/chinmoku/
【アンコール上映】ポレポレ東中野  2月6日―2月26日
【石川】 シネモンド   2月13日ー2月26日 

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アフガンへの再召集を拒否した英兵、ジョー・グレントンへの告訴取り下げの署名(転送)

イギリスの軍人、ジョー・グレントンさんが、アフガニスタンへの再派兵を拒否したために、軍によって逮捕・起訴されました。彼の告訴を取り下げるため、イギリスの反戦団体「Refusing to Kill」が、彼の釈放を求めて多くの人が署名してくれるよう、呼びかけています。署名はこちらのサイトよりお願いします。書面が英文なので、下記に日本語訳を掲載します。
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ジョー・グレントンとクレア・グレントンはアフガニスタンの人々を殺すことを拒否した。

国防省宛て 
光栄なる ボブ・アインワース、国会議員、国防省国務長官 
中央ビル5階、ホワイトホール、 ロンドンSW1A 2HB

cc: 光栄なる ゴードン・ブラウン、首相
ビル・ラメル、国会議員、軍隊大臣
ブルース・ホウルダー、検察当局局長

親愛なるMr.アインワース

ランス・コーポラル・ジョー・グレントンへの告訴を取り下げよ

ランス・コーポラル・ジョー・グレントン、27歳、は2004年に軍隊に入り、2006年にアフガニスタン、カンダハールに送られた。アフガンの人々が英国軍に抵抗して戦っていることにジョーは驚いた。アフガンの人々を助けるために、英国軍は来ていると聞いていたのだ。
恥と失望のため、彼は2007年にAWOL(無許可離隊)に入った。2年後、彼は自分から手を挙げた。義務放棄を告訴され、暫定的は2010年1月に予定されている軍隊法定で有罪と決定されれば、上限10年の牢獄入りに直面している。

L・C・グレントンのAWOL(無 許可離隊)の決意は生命への危機感から生じたものでなく、彼自身の命および隣人たちの命を尊重することから生じた。また、彼の言葉では「アメリカの外交政策の道具」になっていたことの認識から生じたものだった。彼は勇敢にも彼の内部の信念を表明した、アフガニスタンに戻り仲間の人類を殺すか、あるいは殺さ れることを拒否することによって。

7月、彼はゴードン・ブラウン首相にあて以下のように書いた。「アフガニスタンにおける戦争はテロリズムの危険を減らしていません。アフガンの人々の生活を向上させることからかけ離れて、死と荒廃を彼らの国にもたらして います。英国はそこに何の用もありません。お願します。どうか私たちの兵士たちを帰国させてください。」彼の妻と母は完全に彼の決意を支持している。英国の大多数の人々は彼に同意している。最近の2つの世論調査で、1つは2009年7月(Populus/ITN)で59% (女性68%・男性49%)- もう1つは10月(YouGov/Channel 4)で62%-が、軍隊をただちに、あるいは来年中に撤退させることを望んだ。

米国では、良心の問題としてイラク戦争を担う一部となることを行くことを拒否したルーテナント・エレン・ワタダが、最近、軍からの告訴取り下げを勝ち取った。私たちは、少なくとも同様の敬意をL・C・グレントンの服役拒否に対し示すこと、彼に対する告訴を取り下げること、かつ、違法で道徳に反する戦争を戦うことを拒否している、彼に続く他の同僚たちに対し示すことをあなたに要求する。

敬具
あなたの署名
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最後にひと仕事 トルコ映画祭⑦(2009/12/9)

いよいよトルコ最終日の朝。この日は、電話で目が覚めました。グランド・バザールで会った日本人の多恵美さんが、私のホテルの部屋に電話をかけてきてくれたのです。お昼ごはんでもどうかというお誘いだったのですが、あいにくお昼前に空港へ向けて出発しなければならなかったので、「日本で再会しよう」ということになりました。

今日は早く起きれたので、ホテルの朝食を食べに行きました。結局このホテルに6泊したのですが、朝食を食べれたのはたったの2回coldsweats01。このホテルのパンは美味しいのに、とても残念でした。

朝食はビュッフェ形式で、席は特に決まっていません。私は自分が食べたいものを取り、窓際の2人掛けテーブルに一人で座って朝食を取っていました。すると、オランダ人映画ジャーナリストのピーターが「ここに座っても良いか?」と言ってやって来ました。私は「もちろん」と言って、一緒に食べることにしました。映画祭は、ほぼ毎晩ディナーを開催してゲストをもてなしてくれるのですが、私は別行動で遊びに出かけることが多く、ピーターと顔を合わせるのがずいぶん久しぶりな気がしました。

彼は、ジャーナリストの傍ら、オランダのアムステルダム映画祭のプログラミングにも、アドバイザーとして関わっているそうです。ピーターは私の作品を観ていませんが、どうやってトルコの映画祭で上映されることになったのか、これまでどこの映画祭で上映されたのか、反応は、劇場公開は、など聞かれました。

アムステルダム映画祭には、昨年は2800本の応募があり、その中から300本の映画が選ばれて上映されたそうです。世界中の映画を観て回るピーターは、「アジアのドキュメンタリーには優れたものが多いのに、ヨーロッパの映画祭でほとんど上映されないのがおかしい」と言っていました。特に、中国のインディペンデント作品が素晴らしいと言っていました。キュレーターたちに、「なぜアジアの作品を選ばないんだ?」と聞くと、彼らは「アジアの作品はストーリー展開が遅いから」とか「退屈だから」などと答えるそうです。

ピーターは自分が見つけた中国のドキュメンタリーを映画祭で上映させて、結果としてそれはグランプリを受賞したそうです。彼はもっとアジアの映画を探したいと思っているのですが、海外のマーケットに出回る量が圧倒的に少ないので、情報を得るのが困難だと言いました。

長年映画に携わってきた彼は、映画を作る側も、選ぶ側も、「映画」を分かっていない人が多すぎる、と嘆いていました。特にドキュメンタリー作家に対して思うことは、映画をほとんど観ないし、知らない人が多く、それが問題と言っていました(←他の人は分かりませんが、私自身は確かにその通りです・・・)。「”面白い題材”と”面白い映画”は違う。どちらも大切な要素だけれど、これらは別物。題材自身も面白くならなければいけないし、かつ、映画としても成立し、面白くなければならない。”映画”を学ぶためには、作り手自身がもっと映画を沢山観るべきだ」、彼はそう主張していました。

そして、彼は「君のDVDはいつくれるんだ?」と突然聞きました。初めてピーターと会った飲み会の席で「私のDVDも観てほしい」と一度だけ言った約束を、彼はちゃんと覚えていたのです! 「映画祭のディナーにもあまり参加しなかっただろう? 昨日、Prison No5の会場であなたを見かけたけど、途中で出て行ってしまったし」と言われて驚いてしまいました。満員の薄暗い会場の中で、誰かに見られていたとは全く予想していませんでしたから! 

ピーターは「国際映画祭に来たら、他の映画祭のディレクターとか、ジャーナリストとか、配給会社を見つけて、DVDを配るの。それで自分の映画を見てもらうこと。それがあなたの仕事なんだよ。あなたは最後の日にやっと仕事をした」と言われ、ハッとしました。トルコで沢山の友人が出来たことで十分満足していましたが、国際映画祭のためにやってきたのだから、「観光」や「友達&思い出作り」で楽しかった~、では終わらせてはいけないのです。

朝食後にピーターにDVDを渡し、部屋で荷造りをしました。お土産も沢山買い、大量のオリーブとレーズンももらったので、かばんはかなり重くなっていました。チェックアウトをし、空港行きの「ハワシュ」という乗り合いバスの停留所へ向かいます。

ハワシュ
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道路もすいていて、余裕を持って空港に着きました。チェックインをして、機内に乗り込みます。飛行機は行き同様、フランクフルトでの乗り換え。フランクフルトまでの便はトルコ航空でした。トルコ航空の機内誌「Skylife」を何気なく手に取り、読み始めました。2010年のEuropean Capital of Culture(ヨーロッパの文化の首都)にイスタンブールが選ばれたという記事と、イスタンブールは世界の新たなファッションの中心地になれるのか?という記事が、今のトルコの状況と意気込みを象徴するかのようで、興味深い記事でした。

European Capital of Culture(以下、ECC)とは、EUより指名された都市が1年間、文化の都としてさまざまな催しを開催する制度のことです。ECCに指定されたことをキッカケに、文化施設を整え、アーティストを育成し、その後文化の発信地として世界的に認められるようになった都市も多いと言われています。

ECCについてのウィキペディアはこちら(英語)
http://en.wikipedia.org/wiki/European_Capital_of_Culture

2010年のECCにイスタンブールが選ばれたということは、EU入りを熱望するトルコにとって、ヨーロッパ並みの文化水準を持っていることをアピールする、またとない機会です。記事は、これを成功させることが出来るのか、いや、絶対成功させなければならない! 私たちの成功を伝説として後世に伝えるのだ! という悲壮感にも満ちた言葉で溢れていました。

記事では、これまでに開催されたヨーロッパの各都市のECCディレクターたちにコメントを求め、どうやって成功させたのかを紹介しています。また、1年という長期間に及ぶイベントを、多数の関係者、会場、来場者などをオーガナイズする力をどうやって育成していくべきかも論じられていました。「成功するかどうかに関わらず、ECCを開催する経験によって、私たちがプロジェクトを準備し、オーガナイズする力を学べることは、貴重な収穫だ」と言いつつも、「ECCをやり遂げることは、トルコのEU加入の議論にとっても非常に重要」と本音も覗かせています。

もう一つの記事、ファッションもECCに関連した記事でした。文章は「2010年のECCに選ばれたのだから、世界の、特にヨーロッパの目が私たちに向けられる」という出だしで始まっていました。イスタンブールは、NYやロンドン、ミラノ、パリといった世界のファッション都市の仲間入りを出来るのか?という問題が投げかけられていましたが、前述のECCの記事とは異なり、その分析はかなり手厳しいものでした。

「まず、私たちは”何”が世界のファッション都市を作るのかを理解しなければならない」とし、「私たちトルコに欠けている要素は何か?」と自問します。「イスタンブールは都市として刺激に満ちているし、デザイナーのセンスも優れている。しかし、デザイナーたちが望むような反応が返ってこないのが問題だ」、と指摘します。「世界のファッション都市は、もっと力強いメディアのサポートがあるし、バイヤーや消費者もそれを支持している」、とも。そして、「この状況が変わらない限り、イスタンブールが世界のファッション都市の仲間入りをすることはないだろう」と結論付けていました。

これら二つの記事を読んで、私はこの魅力的な街・イスタンブールが、”ヨーロッパ”になることを目指して、平凡な欧州の一都市のようになってほしくない、そう思いました。アジア、中近東、ヨーロッパの中継地点として、多様な歴史と文化をもつ都市。その多様性を、大資本にのっとられた世界的なブランドによって奪われてほしくない。EUに加入することが、近代都市国家としての水準の高さを示すこととは限らない・・・そう思うのですが、EU加入による経済的な効果、域内の自由な人の移動など、加入を望む声のほうが多いのでしょう。

名実共にEUの仲間入りを果たしたいトルコ。文化水準の高い、近代都市国家となれるのでしょうか? 2010年はまさにその試金石となる年です。文化活動が活発になり、沢山のアーティストが切磋琢磨して、新しいものを生み出していくのはとても良いことです。しかし一方で、トルコには未だ公には語れない、80年代の軍事政権、言論弾圧の過去をも持っています。民族差別の問題もあります。こういったことが自由に語られるようになってこそ、真の近代化であり、成熟した民主国家と言えるでしょう。(先進国とか民主国家と言われている国々でも、それらが実践されているかと言うとビミョウですが・・・)。

2010年のECCで、トルコ人アーティストが強烈な自国の歴史批判の展示とかやってくれたら、すごく面白いのにな~と個人的には期待しています。それぐらい受け止める度量があって欲しいですねhappy01 ぜひ、強烈なパンチをかましていただきたいと思います!

そんなことを考えた、空の旅でした。

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以上で、トルコの映画祭レポートは終わりです。すごいボリュームで、自分でもびっくりです。全て読んでくれた人がいるのかどうか分かりませんが、もしいたとしたらありがとうございます!! 読後の感想・コメントなど、是非お寄せください。どうもありがとうございました!

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ムーブメントは始まったばかり トルコ映画祭⑥(2009/12/8)

8日も、朝起きたら既に11時ごろで、この日もまたホテルの朝食を食べられませんでしたweep。午前中は手紙を書いて過ごし、郵便局へ出しに行きました。

カフェに行って、朝食を取りながら、今日一日の予定を考えます。
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ホテルに戻って支度をし、14時半から映画祭スタッフのアイセがプロデューサーとして参加した80年代の軍事政権の映画、「Prison No 5」を観ることにしました。会場に着くと、座席はもうほとんど残っていないような状態で、超満員です。これまで、この映画祭の他の回がガラガラだったことを思うと、平日の昼間でこの人数は異例です。

会場にはアイセがいました。私は自分の映画の上映が16時からあるので、この映画を最初の30分しか観られないと言うと、彼女は映画のDVDをくれました。(この映画は絶対最後まで観なければ!)と思っていたので、DVDをもらえたのは良かったです。

映画を途中退場し、自分の上映会場へ向かいました。イスティクラル通りを歩いていると、演劇やクラブイベントのポスターが張り巡らされている場所に、生身の人間を広告として貼り付けている人を発見! これだけポスターが乱貼されていたら、これぐらいしないと目立ちませんからね!
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今日の上映会場は「Kumbara Sanat」(SanatはArtの意味)。オズギュンも所属しているアートクラブに椅子を並べ、上映会場の一つとして使われています。

アートクラブの入り口
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会場へ入ると、オズギュンのボーイフレンド、ハディルが映写の準備をしていました。「今日はお客さんが少ないかもしれないよ。この前の回は、お客さんがゼロだったんだ。昨日もそうだった」そう言われました。確かに、イスティクラル通りから何本か入った小さな通りにあるので、なかなか人目に着く場所ではありません・・・。

とりあえず下でお茶を飲んで待っててといわれ、階下のカフェに行きました。
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上映時間が近づき、上の階へ行きました。観客は5人ほど・・・。別会場の「Prison No5」は超満員だったのに比べるとずいぶん寂しいですが、トルコ人は「Prison No5」を観るべきなんだ!とも思ったりしました。

上映の後は少人数だったので、質疑応答ではなく、雑談形式で話をしました。観てくれた人たちは、映画を気に入ってくれたようで良かったです。映画の後半からは、空港へまた別の監督を迎えにいっていたオズギュンもやって来ました。

映画の後、オズギュンとハディルに、彼らが所属しているアートクラブで、初めての大きなイベントがあるから来ないかと誘われました。アートクラブは大学生・社会人の有志が集まって約8ヶ月前にスタートし、それぞれ自分の持っているスキルを活用して、週一でカメラの無料講習会をやったり、映画を観てそれについて批評しあったりという活動をしているそうです。今夜は、大きな会場を借りて、ミニコンサートと演劇をやるということでした。

私もそれに一緒に行くことにしました。タクシム広場からタクシーに乗り会場へ向かいます。そこは「マルクス劇場」という名前の会場で、集った100人以上ものアートクラブの会員たちは、ちょっと古いヨーロッパのインテリ学生のような風貌(痩せていて、コートを羽織り、髪はやや長めでボサボサ、太いフレームのメガネをかけている)だったり、チェ・ゲバラのTシャツを着ていたり・・・と、イスタンブールの街中を歩くNIKEやGAPを格好よく着こなす若者とはだいぶ異なっていました。私には、アートクラブの彼らが敢えてそういう格好をしたがっているようにも見えました。というのも、彼らが着こなせているようには見えず(ゲバラTシャツもまだおろしたて風でしたし、古い格好もどこか小奇麗でしたcoldsweats01)、初々しさが漂っていたからです。

1980年代の軍事政権や民族的背景について、近年やっと語れるようになったというトルコでは、社会運動や社会批判的現代アートのムーブメントは、まだ始まったばかりなのかもしれません。だからこそ、その動きにはとてもフレッシュさを感じますし、参加している人々を見ると、かなり間口が広くオープンな印象を持ちました。(もちろん、80年代の軍事政権以前からの活動家もいますが、それとは別の新しい世代によるムーブメント、ということです)。これからの彼らの活動に期待します!

「マルクス劇場」の入り口
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開始は30分ほど遅れていました。ロビーで待つ人々。
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オズギュンとハディル。この二人には超お世話になりました!!
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開場し、主催者の挨拶がありました。彼も映画祭のボランティア・スタッフです。
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トルコの民族楽器も交えたコンサート。とても良かったです!
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その後は休憩を挟んで演劇が始まる予定でしたが、トルコ語が分からない私はここまでにして、クルド人のアブドラと夕食の約束をしていました。オズギュンとハディルにタクシーを捕まえてもらって、タクシム広場へ向かいます。オズギュンたちとは今日が最後・・・。そう思うと、とても寂しくなりました。「監督のアテンド係」という枠を超えて、「友人」として接してくれた彼らに感謝!!

タクシム広場でアブドラと待ち合わせをしました。イルディスのお姉さん、ベヤズも誘ったのですが彼女は用事があって来れませんでした。ご飯を食べながら、アブドラはクルドについて話し始めました。

「クルド人」とはそもそも、トルコ・イラク北部・イラン北西部など、中東の各国に広くまたがって分布し、独自の国家を持たない世界最大の民族。アブドラはクルド人が多く住む、トルコの東側の地域で生まれ、電気もガスもない生活をしていたそうです。13歳のときに家族でイスタンブールに移り住み、トルコ人が通う学校へ行き、トルコ語を勉強するようになりました。今では母語であるクルド語よりも、トルコ語のほうが自分の言葉になっているとのこと。

1年ほど前にアメリカに渡り、グリーンカードを取得。(←と本人は言っていましたが、グリーンカードはこんなにすんなり取れるのでしょうか? 抽選で当たる、というタイプのものでしょうか?? 私の友人でアメリカに住みつつグリーンカードの取得を目指している人たちは、かなり苦戦しているようですが・・・)。

今では、自分は一生アメリカに住むことになるだろうと思っているそうです。トルコに来ることがあっても、それは一時的な滞在でしかない、と。

イスタンブールで、トルコ人にもクルド人にも会いましたが、私にはその外見的な違いは分かりませんでした。アブドラは、「トルコ人とクルド人の外見の違いははっきりしていて、すぐに区別がつく。自分はここのレストランにいる人の中で、誰がトルコ人で、誰がクルド人かを正確に言い当てることが出来る」と言っていました。クルド人はトルコ人に比べて、瞳や髪の色がやや薄いのだとか・・・。でも、そう言われてもやっぱり私には区別がつきません。”トルコ人”と言ったところで、祖先はロシアやブルガリア、キルギスタンなどという人も多いのですから。

「戦争や政治・経済情勢で人は移動し、離れ離れになる。国なんてなくして、人がもっと自由に移動できれば良いのに」と、アブドラは言いました。民族が多様で、「民族」と「国」が著しく一致しない国で、さらに「クルド人」という独自の”国”を持たない民族として生まれたアブドラ。そんな彼が生涯の地として選んだのはアメリカ。彼にとって”国”とはどういう意味を持つのでしょうか・・・。

そんなことを考えた、トルコ最後の夜でした。

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いよいよ上映! トルコ映画祭⑤(映画祭報告2009/12/7)

オズギュンの家に泊まった日は、朝は11時ごろに起きました。私が起きたときには、オズギュンは監督を迎えに空港まで出かけていて、お母さんが家の掃除をしていました。他人の家でこんなに遅くまで寝ているなんて・・・相当疲れていたのでしょうか。お母さんは、私が起きたのに気が付くと、朝食を用意してくれました。朝食はホテルで出されたのと同じ、白いチーズにオリーブ、トマト、パン、ストレートの紅茶といったものでした。

お父さんの実家は農業を営んでいるので、オリーブやレーズンは彼の実家から送られてきたものだと言いました。少し食べてみると、とても美味しくてびっくり! すっかり気に入って沢山食べていると、「これ日本に持って帰る?」と聞かれました。ふと税関のことが頭をよぎりましたが、きちんとパックされていれば大丈夫と思い、持ち帰りたいと言いました。私は一握り程度と思っていたのですが、お母さんはかなり大きめの袋を持ち出して、ぎゅうぎゅうに詰めてくれますcatface。これだけで2~3キロはあったはずです。

自家製のオリーブ(日本まで無事持ち帰り、家で写真を撮りました)
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保存用のタッパー3つ分にもなりました!
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レーズン。色は薄い緑色。(普段私がスーパーで見るのは濃い紫色のものがほとんどですが、この前輸入食品のお店に行ったとき、これと同じうす緑色のものが「シルクロードのレーズン」として売られていました。)
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こちらも保存容器に移し替えました。
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ご飯を食べた後、ボスポラス海峡沿いを散歩しようと誘われました。私は今日の夕方から自分の上映があり、お母さんも家庭教師の仕事は夕方から(子どもが学校から帰って来てから教えるので)ということで、まだ時間がありました。

お母さんと商店街を通り抜け、海峡沿いへ向かいます。新市街からやや離れた住宅街のこの辺りでは、外国人が珍しいのか、皆がジロジロ見てきます。トルコ人のお母さんと一緒に歩いているのが不思議なのか、いろんな人が話しかけてきました。

ボスポラス海峡沿いに立つイスラム寺院の中に入りました。中はシャンデリアで飾られている珍しい寺院です。スカーフを被ったお母さん。
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イスラム寺院とボスポラス大橋
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お母さんと海峡沿いのカフェでお茶を飲んだ後、家に戻り、荷物を持って、新市街に向かうことにしました。お母さんは「今日も泊まりに来てくれていいのよ」と言ってくれました。たった一晩の滞在でしたが、別れるときはずいぶん寂しく思いました。

オルタキョイからバスに乗り、新市街へ向かいます。20分ほどでバスはタクシム広場に着き、ホテルへ戻りました。ホテルで荷物を整理し、ネットカフェでメールをチェックします。トルコについてからもうだいぶ経っている気がしましたし、ずいぶん満喫したと思うのですが、本来の仕事である上映はまだだということが不思議でした。今日がいよいよ初めての上映です。上映の後には質疑応答もあるということでした。せっかくだからビデオに撮ろうと、ビデオカメラや三脚も持って上映会場に向かいました。

会場はイスティクラル通りをタクシム広場から15分ほど歩いたところにある場所。テュネル駅近くのMuammer Karaca Tiyatrosu(TiyatrosuはTheatreで、劇場という意味)。

劇場の入り口
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劇場の中に入ると、カタログやTシャツを販売するブースが設置されていました。
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会場。かなり大きいです・・・
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会場の中に入ると、スタッフの人たちが字幕の投射位置を調整していました。
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トルコ語の字幕が付くのですが、トルコ語の字幕は別のプロジェクターで投射します。各字幕の投射は手動で行う(字幕が変わるたびにボタンを押す)のですが、投射係の男性は私の映画を見るのが初めてとのこと・・・coldsweats02。これではかなり難しいのではないでしょうか?!

不安に思いつつも、上映時間が近づいてきました。映画祭にゲストでやって来ているポルトガル人監督のフランシス、ブラジル人監督のダニエラ、そしてオズギュンのお父さんも見に来てくれました!

字幕投射の調整に時間がかかり、映画は予定の20分遅れで始まりました。画面からやや離れて下に投射されているのがトルコ語の字幕です。
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私の映画を見るのが初めてという投射係の人は、馴れているからかタイミングよく字幕を切り替えくれました。それにしても1時間半以上集中して字幕の操作をするのは、かなり神経を使う仕事でしょう!
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上映の後は、質疑応答がありました。ボランティアスタッフの大学生が私の通訳(英語⇔トルコ語)をしてくれました。
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質問は、どうして映画にしようと思ったのか、どれぐらいの期間撮影したのか、撮影して自分の変化はあったか、この映画はこれまでどこで上映されたか、ロンドンの前市長、ケン・リビングストーンにはインタビューをしたか、ブライアンを題材にした映画はこの映画のほかにもあるのか、ブライアンのサポーターたちのその後は、イラク、アフガンへの侵攻を私はどう考えているのか・・・etc、お客さんの人数はそれほど多くなかった割りに、沢山の質問をもらって、とてもうれしかったです!
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ケン・リビングストーンにインタビューを試みたのか?という質問の背景ですが、彼はリベラル派で知られ、反戦活動にもわりと積極的に参加する人だったので、私の映画の中に「ケン・リビングストーンがブライアンたちのテントを撤去した」というくだりがあるのを、不思議に思われたからです。実際、彼は反戦のデモにも時々参加はしていましたが、一方でロンドン警察からのブライアンの撤去の要請にも応じています。”自分の職を失うほどの反戦の主張はしない”というのが、彼の姿勢だと私は思います。一般に、ケン・リビングストーンはリベラルの人たち全般に好意的に受け入れられていますが、実際に反戦活動をしている人たちは支持をしていない、というのが私の印象です。
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通訳を介しての質疑応答は、私にとって初めての経験でした。ひとまとまりごとにトルコ語に翻訳してもらわなければならないのですが、ついつい盛り上がってくるとそれを忘れて話し続けてしまいました。”訳し易さ”も考えて話さなければならないですねcoldsweats01

大抵の質問は、日本での上映会とそんなに差はありませんでした。しかし、「イラクとアフガンの侵攻について、あなたはどういう意見なのか?」と聞かれたのは初めてのことでした。日本での上映会だったら、これは反戦の映画なのだから、もちろんイラク・アフガンの侵攻にも私自身反対なはず、と推測されるのでしょうが、以前書いたアメリカの反戦運動を取材した「冬の兵士」でも出てくるように、イラク派兵は反対だけれども、アフガン派兵は賛成という反戦活動家も、海外では少なからず見受けられるわけです。なので、これは海外ならではの質問だと思いました。

自分の上映の後は、そのまま同じ会場で次の作品を見ました。「H2Oil」というカナダの作品です。カナダでは各地で大規模な油田開発がなされ、今やアメリカへの最大石油輸出国となっているそうです。その一方で見過ごせない環境汚染が進み、地元住民の健康被害も報告されている。その実態を告発したドキュメンタリーでした。

上映後の監督質疑応答
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この映画の後は、イスティクラル通りにあるレストランへ向かいました。映画祭主催のディナーがあるからです。映画祭のスポンサー企業でもある「SANAT」レストランでの食事でした。映画祭のゲストは入れ替わり立ち代りでやってきますが、今夜が一番多くのゲストが揃うため大きなディナーパーティーが用意されていました。来場監督、スポンサー企業、映画祭スタッフなど、総勢60名以上のディナーです!

パーティーで、映画祭代表の乾杯。
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私の席は、私の映画字幕を担当してくれたボランティアのセミール、そしてオランダ人の映画監督アリオナ(Aliona van der Horst)たちのテーブルでした。アリオナの作品「Boris Ryzhy」の評判は、いろんな人から聞いていました。オランダ最大のドキュメンタリー映画祭、アムステルダム・ドキュメンタリー映画祭で銀賞を撮ったこの作品は、26才という若さでこの世を去ったロシアの詩人、Boris Ryzhyを追ったドキュメンタリー。厭世的でハンサム、カリスマ性があり、死んでもなお多くの若者に支持されているという彼は、日本でいう尾崎豊のような人物だったのかもしれません。

残念ながら、その作品を見ることは出来ませんでしたが、驚いたのはアリオナの強烈なキャラクターでした。今回の映画祭で来場するゲストは、シリアスなテーマを扱っている人が多いからかは分かりませんが、どちらかというとやや静かで思慮深く話すようなタイプの人が多かったのですが、彼女は「皆さん、私の話を聞いてくださーい!」と突然立ち上がって、自分の次回作の宣伝を始めたりする人なのです! びっくりする一方、(なかなかこんな風に自分の作品を堂々と宣伝できないよなぁ)と感心さえしました。彼女が話し続ける間に、電話に出たりしたら「あたしの話は終わってないのよ!」と注意しますcoldsweats02。でも、他の人が彼女に話しているときには、突然席を立って他の人に話しかけに行ったりする・・・。色んなタイプの監督がいるんだなとつくづく実感・・・。

そんな彼女の次回作は、なんと日本人の女性アーティストが主人公! 向井山朋子(むかいやまともこ)さんの「wasted」という作品についてのドキュメンタリーで、今年(2010年)には完成するそうです。オランダで映画の上映をしたときに、上映後に向井山さんがアリオナに話しかけて彼女のアートプロジェクトを説明し、それでドキュメンタリーを作ることになったそうです。向井山さんはもともと国際的に活躍されているアーティストのようですが、自分や自分の作品のドキュメンタリーを違う国の人に頼んでみるというのは、新たな視点が加わって面白い結果を産むかも、と思ったりします。

wasted ウェブサイト(日本語・英語)
http://www.wasted.nl/

この「wasted」のプロジェクトの概要がウェブサイトに記されています。(以下、「wasted」ウェブサイトより一部抜粋)

・・・’wasted’の核となっているのは、太古の昔から変わらず「豊穣」の象徴として女性に顕れたもの、すなわち「月経」である。「産み出す力」の証でもあるこの身体現象に対する人間の感情は、世界各地でさまざまな慣習や文化を作るきっかけとなってきた。それはしばしば「忌むべきもの」として扱われ。月経について話すことはタブーとされてきた。しかし同時に月経はいつの時代にも全ての女性が共有する、すなわち最も力強く人間同士を結びつけるものでもある。実際、あなた自身が今ここにいることの源でもあるのだ。・・・

そんなコンセプトをもつ彼女の作品は、数千もの白絹のドレスで埋め尽くされた迷路の中を歩くことによって、現代に生きる私たちが自身の体を見つめなおし、自分の生命の尊さを祝う旅に出る、というもの。昨年夏の新潟県十日町で開催された「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2009」で展示されたそうです。そしてトリエンナーレでのインスタレーションを撮影するため、アリオナも日本へ行ったそうです! インスタレーションを見た人の反応はどうだったか、特に男性はどう思ったのかと聞いてみたところ、ある農家の男性は「まるで鎮魂歌のようだ」と言ったそうで、アリオナが「チンコンカ!」と何度も言っていたのが面白かったですhappy01 私も展示を見られる機会があったら是非行って見たいですし、映画も楽しみです!!

アリオナは、映画祭のボランティアスタッフの女子学生たちに、「あなたたちの月経について教えてほしい」と言っていました。彼女は封建的なアラブの国々での女性と月経について知りたいのだそうです。彼女たちはちょっと返答に困っていました。(アラブ諸国ではなくても、生理を話題にする機会は普段あまりないかもしれませんが・・・coldsweats01

月経の話から、話題は「トルコは保守的か?」という話になりました。イスタンブールに留学して、現在はイスタンブールにあるドイツの経済省でインターンの研修をしているという、ドイツ人の女性が言いました。「アラブについてあれこれ言われていることや、統計というのは、トルコには全く当てはまらないのよ」と。例えば、イスラムの女性が被るスカーフ。スカーフは保守的、封建的のシンボルのように思われていますが、実際、スカーフをかぶっていなくて、肌丸出しの派手な格好で歩いている女の子たちが、意外にも超保守的な考えを持っていたり、その逆に、スカーフを被ってはいるけれど、かなり進歩的な考えの女性もいるそうです。スカーフは保守的かどうかの物差しにはならないと言っていました。

イスタンブールは大都市なので、トルコの他の都市に比べたらリベラルなのでしょう。また、この映画祭のスタッフは、イスタンブールの平均的な人々に比べて、さらにリベラルだと感じます。よって、映画祭のスタッフと話しているだけで「トルコは・・・」とは全く言えない。むしろ彼らは超少数派。イスタンブールでいろんな人に会ってきて、私はこう実感していました。
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ところで、いまやヨーロッパの多くの国では「建物内は禁煙」と法律で定められている国が多く、日本でも場所によっては分煙を実施しているところもありますが、トルコではレストランやバーで皆タバコを吸いまくっています。ポルトガル人監督のフランシスはタバコが苦手で、「何でトルコは禁煙じゃないの~!?」と不満を言っていました。ところが、トルコでも2年ほど前に「建物内は禁煙」と法律で定められたそうです! ではなぜ皆吸いまくっているのでしょうか???

聞いたところ、「見回りの警察官は建物の1階しか見て回らないから、2階以上の階ですうなら大丈夫」と言うのです! 「トルコで法律が定着するには5年はかかる」とも・・・。イギリス滞在時にちょうど「建物内は禁煙」の法律施行の日を体験した私には、この感覚は驚きでした・・・!

23時ごろにディナーはお開きになり、ホテルへ戻りました。

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トルコでホームステイ! トルコ映画祭④(映画祭報告2009/12/6)

6日の日曜日の朝は、とんぼがえりでイギリスへ帰るポールを見送りました。・・・といっても、朝5時半と早い時間だったので、空港ではなく、ホテルのフロントロビーで見送っただけでしたが・・・bleah

それからまた自分の部屋に戻って寝て、9時ごろ起き、ホテルの朝食を食べました。トルコ式の朝食は、白いチーズにオリーブ、パン(これがめちゃくちゃ美味しい)、トマト、ヨーグルトなど。
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チーズやハムはいろんな種類がありました。
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支度をして、タクシム広場へ向かいます。今日は、イスタンブールの空港に着いた初日に救ってくれた恩人・ナザニンと会うことになっているのです。空港から旧市街へ向かうバスの中で名刺をもらっっていたので、私はネットカフェから彼女にメールを出し、仕事が休みの土日で遊ぼうとなったのでした。

タクシム広場で待っていると、ナザニンと友達のヨゼフ(ジョゼフ?)がやってきました。ナザニンはイラン人で、約2年前からイスタンブールで働いているそうです。イラン、パキスタン、トルコの政府が合同で出資する政府系の銀行で、公共事業などへの融資を担当しています。会社勤めの傍ら、数ヶ月に一度2~3週間のお休みを取り、グラスゴーの大学院で銀行業について研究をしているのだとか。私が彼女と空港であったときは、ちょうどグラスゴーから帰ってきた時。私が迷っているのを見つけたけれど、その時は私が旅行業者風の人に声をかけられていたので近づかず(旅行業者は商売の妨害をされたと怒る人もいるので)、私が一人になるのを見計らって声を掛けてくれたのだそうです! 感謝!!

一方のヨゼフは、トルコ人でトルコの首都・アンカラの出身。2ヶ月前にイスタンブールにやってきて、公務員として働いているそうです。

どこに行きたいかと聞かれ、私は「アジア側に行って見たい」と答えました。この日の転機はあいにくの雨でしたが、船で20~30分ほどでアジア側に行けるので、行って見ようということになりました。

大型船に乗り込みます。(船なのに、アジア行きの乗船料も路面電車と同じ1.5トルコリラと格安!)
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船の中で。ナザニンとヨゼフ。
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ナザニンと。
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30分ほどでアジア側の港、カドウキョイに到着。
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船から下りて、雨が強く降っていたので、インドアのショッピングセンターに行くことにしました。10分ほど歩くと、巨大な建物が見えてきました。
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ショッピングセンターの中は、あらゆる小売店、シネマコンプレックス、レストランなどがあり、日本やイギリスのショッピングセンターとまるで同じです。
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シネマコンプレックス。ちょうど「2012」などが上映されていました。
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アパレルショップは、ZARA、GAP、NIKE、MANGO、DIESELなど海外展開をしている欧米系のお店が並びます。
イギリスのマークス&スペンサーまで入っていました。
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ヨゼフは、スノーボードが趣味で、新しいボードを探していました。アウトドア関連のショップに入り、色々と物色します。North Faceというアウトドアのブランドがありますが(←イギリスでは、雨が降っても傘をささずに歩く人が多く、その代わりに撥水・防水加工のあるジャケットを着ています。このNorth Faceのジャケットを着ている人がやたら多い)、そこの品揃えをみて、値段がイギリスや日本とほとんど同じということに驚きました。ジャケットが大体3~5万円でした。給料や物価は、トルコとイギリス・日本ではかなり差があると思うのですが、ブランド品や、電化製品、携帯電話などはほぼ同じ値段で売られているのです。でも、決して安くはないiPhoneとかを、かなりの人が持ち歩いています・・・。

ブランド品類の値段がほとんど変わらない事について、トルコの人々は「関税を高くかけているから」と言っていましたが、そういう理由でなのでしょうか? ・・・真相はよく分かりませんが、いずれにしろかなり高額な携帯電話やブランド品を、みんな頑張って手に入れるようです。

ショッピングセンターを出て、ブラブラと歩きながら観光しました。
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午後4時ごろにまた船に乗り、新市街へ戻りました。あっという間でしたが、ここで彼らとお別れし、私はイスティクラル通りを通って、トルコの国営テレビ局へ向かいました。今日は5時から、テレビ局のインタビューを受けるのです!

トルコのテレビ局
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テレビ局の前にオズギュンが待っていて、収録室へ案内されました。テレビ局では、「ドキュメンタリー映画とアートの可能性」という番組を作り、1月に放映するので、映画祭に来場した監督たちのインタビューを取ることになっていました。

収録室。背景は緑の布が下がっています。その状態で撮影すると、編集の段階で、緑部分に他の映像を組み合わせることができるのです。私の場合は、私の背景に私の映画の映像を流すそうです。
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ディレクターとカメラマンに挨拶をしました。インタビュアー兼通訳はオズギュン。撮影されることに同意する旨の文書にサインをしました。
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こんな大きいカメラで!
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明るさなどを調節して、早速インタビュー開始! 質問はあらかじめ用意されていて(多分全ての監督に同じ質問をし、それらを組み合わせていくというやり方なのでしょう)、自己紹介、あなたにとってドキュメンタリー映画とは何か、ドキュメンタリー映画の客観性についてどう思うか、ドキュメンタリーは国同士の相互理解にどう影響するか、ドキュメンタリーとアートの関係、日本のドキュメンタリー映画の状況、イギリスの状況、ドキュメンタリーとフィクションどちらを好むか、などの質問があり、大体30~40分ぐらいはなしました。

質問はオーソドックスなものばかりでしたが、それでも改めて聞かれるとなかなか難しいものでした。また「あなたにとってドキュメンタリーとは?」とか、質問が壮大すぎる! そして英語でインタビューを受けるのはほぼ初めてだったので、それも難しくさせた原因のひとつと言えるでしょう。それでも、緊張してすらすらと出てこないときもあれば、すぅっと話せるときもありました。(なぜそうなるのかを後で話していたのですが、”自分を良く見せたい”とか”この答えで相手を感心させたい”と言ったような不純な思惑が混じると、大抵詰まってしまうようです・・・coldsweats01

インタビュー後にディレクター、オズギュンと。
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カメラマン、オズギュンと
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インタビューの後、オズギュン、ディレクター、カメラマンとお茶を飲みました。彼らは今日この後に、あと4人のインタビューをこなすそうです。ちょうどトルコの人気番組の生中継がある日で、一般の観客たちが荷物検査を受けて建物の中に入っていきました。建物の外には生中継の車があり、中を覗いてみせてくれました。カメラマンは「ここの機材はほとんどが日本製だよ」と言いました。

インタビューの後、オズギュンから「私の家族があなたに会いたがっているんだけど、今夜うちに泊まりに来ない?」と誘われました。うわ~、それは楽しそう!ということで、急遽泊まりに行くことに! オズギュンは早速お母さんに電話します。お母さんは、沢山のご飯をこれから作ると大張り切りなのだとか。「お腹すかせておいてね」と言われました。

オズギュンはまだ残りの監督たちのインタビューの仕事があるので、20時に待ち合わせることにしました。私はいったんホテルに戻り、泊まりの用意をしたり、メールの確認をしたりして時間をつぶしました。おうちに訪問するなら、何かもって行きたいと考え、タクシム広場近くの花屋に立ち寄りました。そこで花束を買い、オズギュンとの待ち合わせに向かいます。

オズギュンはちょうどギリシャ人の監督とカメラマンのインタビューを終えたところでした。監督たちに挨拶をします。Exile Islandという作品のElias Giannakakis監督と、Claudio Bolivarカメラマン。彼らはこれまでに8年間一緒に仕事をしてきたそうです。監督は時々自分で撮影もするそうですが、下手だと自分で思っているそうです。必ず三脚を使うようにしているとも言っていました。彼は「ギリシャで日本の映画は沢山上映されている。古いのだけでなく、新しいものもだ。その量にあなたはきっと驚くだろう」と言いました。つい最近監督が見たのは、是枝監督の最新作だと言っていました。

一方、ギリシャでは、自国の映画産業はとても大変な状況なのだそうです。まず、ギリシャという国自体が小さい。それに比例して、映画会社、配給会社、劇場など、それぞれの規模が小さく、業界自体のスケールが小さい。「日本では、東宝、東映とか大きな映画会社があるでしょう? そういうのがギリシャにはないんだ」そう彼は言いました。(←でも、大きな映画会社があると、市場はそれらに独占されてしまって、小規模の映画会社や自主制作者は大変という不利な面も大いにあると思います)

ギリシャの自主映画事情についても聞きました。自主映画の劇場公開は、まず1週間のロードショーをします。最初の3日間の興行成績がよければ、更に1週間延長、そしてまた最初の3日間の成績で・・・となっているそうです。製作者にとってかなり不安定で不利な条件だと言っていました。(←私は劇場公開をしたことがないので詳しくありませんが、多分日本も同じようなシステムじゃないかと思います)

ギリシャの監督と別れ、私とオズギュンは彼女の家に向かいました。タクシム広場からタクシーで15分ほど北東の方向に向かった、ボスポラス海峡沿いの街、オルタキョイです。

ボランティアスタッフとして、朝早くから、到着する海外のゲストを空港へ迎えに行き、ホテルのチェックイン、街中の案内、通訳などで働きどおしのオズギュンは、私と個人的に親しくなったこともあって、不満を言いました。映画祭でのボランティア活動は、確かにものすごく忙しいけれど、とても良い経験をさせてもらっているし、満足しているとのこと。でも、映画祭の専従スタッフの中で1人、学生ボランティアたちを尊敬の念なく、見下して使う人がいるのだそうです。

オズギュンはそのスタッフ(女性)に相当憤慨しているようでした。そのスタッフのせいで、既に5人のボランティア学生が辞めたというのですから、かなりのものなのでしょう。映画祭側も何人かから苦情を受けて事情を知っていて、映画祭終了後にボランティアスタッフと共に彼女に対して手紙を書き、辞めさせるといっていました。私もロンドンにいたときに、ロンドン国際映画祭のボランティアスタッフをしていたのですが、ボランティアと有給スタッフというだけで優劣をつける女性がいて、(こういう種類の人って、世界共通で存在するんだな)と思ったものですwobbly

さて、タクシーを降りて、オズギュンの家へ向かいました。玄関を入ると、お父さんとお母さんが出迎えてくれました。英語をほとんど話さないご両親に、「こんにちは」ぐらいトルコ語で覚えておけば良かったと後悔。挨拶もそこそこに、晩御飯を食べることになりました。

キッチンにて
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お母さんお手製の「マントゥ」。トルコ風ラビオリで、肉入りワンタンという感じ。ニンニクをすりつぶして入れたヨーグルトとトマトソースをかけていただきます。付け合せはオーブンで焼いたナスなどの野菜の盛り合わせ。美味しい~~。
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デザートははちみつ漬けのパイ・バクラワでした。すっかりお腹がいっぱいになったところで、上機嫌のお父さんは「トルコのお酒を飲もう!」と言いました。「ラク」といって、水で割ると白くにごる珍しいお酒。ウォッカのようなビンに入っていて、見るからに強そうなお酒です。一体どんな味なのか・・・?

ビデオに撮りましたのでご覧くださいtv
http://www.youtube.com/watch?v=zBB0McxPqUw

味は、アニスの匂いがして、甘みが強く、「アブサン」に似ていると思いました。グラスに一杯飲んだだけで、記憶が飛んでしまいそうな位強いです。(でも実際のアルコール度数は20%程度とそんなに高くないのですが)

ご飯の後は居間へ。「イスタンブールのアパートはどれも小さい」と聞いていましたが、日本の一般的なアパートよりよっぽど広い、というのが私の印象です。オズギュンの家も、3人家族で3LDK。寝室は8畳以上はありそうですし、居間も15畳ぐらいはあると思いました。

居間で。お父さん(アーメッド)とお母さん(セノール)と共に。
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もともと、トルコのアジア側のイズミールという街出身ですが、オズギュンがイスタンブールの大学へ進学し、一人暮らしをしているときに交通事故にあって日常生活に支障が出たので、ご両親は一人っ子のオズギュンのために、生活の拠点をイスタンブールのオルタキョイに移したそうです。お父さんは中学校の理科の先生。お母さんもかつては教師でしたが、既に退職していました。しかし、イスタンブールの物価が高いため、大富豪の家の家庭教師としてパートタイムで働いているそうです。お父さんは来年定年退職なので、退職したらまたオズギュンをイスタンブールに残して、二人はイズミールへ戻る、と言っていました。

日本の社会・経済状況について聞かれました。私は、「昔の日本企業は(良くも悪くも)終身雇用制だった。その後、企業の海外進出が進み、日本の企業は仕事の拠点を海外にシフトさせ、日本の従業員のリストラを始めた。正社員を雇うと簡単にクビに出来ないので、企業は派遣社員を雇うようになった。派遣社員の身分はとても不安定。今は大学を出ても、まともな仕事につける保証は全くなく、派遣社員などを転転とする人も多い。富める人はもっと富み、貧しい人はもっと貧しくなるという格差が広がっている」と一般的な状況を説明しました。オズギュンたちは、大学を出ても仕事につける保証がないというのはトルコも全く同じだと言いました。「グローバル資本のせいよ」とお母さんは言いました。

ご飯の後は、オルタキョイの夜景を見に、オズギュンと外へ出かけることにしました。

ライトアップされたモスクの前で
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モスクとボスポラス大橋
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ボスポラス海峡沿いで、風が結構強かったのですが、ベンチに腰掛けてオズギュンと色んな話をしました。学校のことや将来のこと。映画祭のボランティアスタッフとして一緒に活動しているボーイフレンドのハディルのことも。来年、ご両親が定年退職してイズミールに戻ったら、彼と一緒に暮らそうかと考えているそうです。

彼女の話を聞きながら、私は映画祭に関わる人たちについて思い巡らせていました。トルコは一応モスリムの国家。でも、お酒も飲むし、新市街を歩く女性のほとんどはスカーフも被っていません。タバコを吸う女性も日本よりよっぽど多いくらいです。映画祭のスタッフに関しては、さらに開放されているような印象を持ちました。髪を伸ばした男性もいれば、逆にスキンヘッドのような女性もいる。学生のうちから同棲している人も結構います。しかし、一方では、今の政権はかなり宗教色が強く、宗教的な規範を取り戻そうとしていると聞きましたし、今でもタブーな80年代の軍事政権の歴史もあります。イスタンブールのような大都市だけ、そしてリベラルな人が集まるドキュメンタリー映画祭だから、こんな人たちに多く出会うだけなのかもしれません。

だいぶ寒くなってきたので、家に戻りました。オズギュンの部屋のソファベッドで寝かせてもらうことになりました。(部屋は翌朝撮影したもの)
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ハローキティの小物入れ。イスタンブールにある「ジャパン・バザール」という、日本のものを売るお店で購入したそうですが、日本のものとは微妙に顔が違いますcoldsweats01
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化粧台も女の子っぽいcherry
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気が付いたらもう2時ごろになっていました。今日も盛りだくさんの一日でした。

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フェスティバル・サーキット トルコ映画祭③(映画祭報告2009/12/4-5)

12月4日金曜日。今日はポールがイギリスからやって来る日でした。会社員として働いているため、金曜日だけ有給休暇をとって2泊3日の参加です。私は空港まで迎えに行くことになっていました。

朝10時ごろに起きて、ホテルのロビーでムバラクたちとお茶をした後に、ネットカフェに行きました。旧市街のネットカフェの相場は1時間1トルコリラ。大体70円ぐらいです。

ホテルに戻り、チェックアウトをしました。というのも、今夜からは映画祭が用意してくれた新市街にあるホテルに宿泊するからです。チェックアウト後、荷物を預かってもらって、空港へ向かいました。空港まで、路面電車と電車を乗り継いで1時間弱。

私が空港に到着したときのような混乱はなく、ポールとはスムーズに会えました。電車、路面電車に乗ってホテルに戻り、預けておいた荷物を受け取りました。フロントのイルディスとお茶を飲みながら少し話しました。たった数日前に「土曜日はトルコのディスコへ行こう!」と盛り上がって約束をした私たちでしたが、イルディスは「多分行かないと思う」というのです。「他の友達と出かけるかもしれないし、出かけないかもしれない」という理由で!

もう既に別の予定が入ってしまったのならともかく、入ってもないし、入るあてもないのに、行くのをためらうのはなぜだろう?と変な気持ちがしました。それは私だけでなく、聞いていたポールも、(???)という顔をしていました。

私たちが不思議に思っているのが伝わったのか、しばらくしてイルディスは、「実は、アブドラと昨日ケンカをしたので行きたくない。彼が私に謝るまで行かない」と話し始めました。ケンカの発端は、本当に些細なことだったらしいのですが、イルディスによると「彼は私が幸せそうにしているのをいつも嫉妬している」と。「私たちはクルド人なの。トルコの東側で生まれて、15年ぐらい前にイスタンブールにやってきた。クルド人は貧しくて、教育も受けられなくて、大変な思で生活をしている。アブドラはものすごい努力家で、自分の力でアメリカまで渡った。でも、彼はいつも不満を抱いているし、満足しない。私みたいに、安月給でホテルで働いているのに、幸せそうにしているのが許せないのよ。それで時々私にひどいことを言うの」彼女はそう言いました。

彼らがクルド人だということを私は知りませんでした。顔からは判断のつかない私は、ただトルコ人なんだろうと思っていました。他の人から「トルコでは未だに”自分はクルド人だ”と言うのは憚られる様な状況」と聞いていたので、ディスコに行く・行かないという話から、思いがけずクルド人だと告白されたことに、ちょっと驚いてしまいました。私はアブドラとそういう状況なら分かったと言い、アブドラが彼女に対して謝ってくれて、皆でディスコにいけることを願いました。

荷物を受け取って、新市街へ向かう路面電車に乗ります。ホテルは、タクシム広場から歩いて5分ほどのところにあるGolden Age ホテル。
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私の部屋! 一人でこんな広い部屋を使ってしまいましたhappy02
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バスルーム
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部屋に荷物を置いて、19時に映画祭のスタッフとタクシム広場で待ち合わせをしました。今夜は映画祭のおもてなしディナーだそうです! 前日に会ったブラジルとポルトガルの監督と、そしてオランダ人の映画ジャーナリストとともに、レストランへ向かいます。金曜日ということで、いつになく大混雑のイスティクラル通りを、映画祭のスタッフを見失わないように気をつけながら歩いていきました。

レストランは、フィッシュマーケットにある魚料理のお店。ゲスト、映画祭スタッフ合わせて約20名ほどのディナーでした。
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一緒のテーブルに座ったのは、ポール、オランダ人ジャーナリストのピーターと、ポルトガル人女性監督のフランシスでした。

45年間、映画専門のジャーナリストとして活躍してきたピーター(右手前)。
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カンヌ、ベネチアなど超有名な国際映画祭からマイナーなものまで、世界中の映画祭を飛び回り、各映画祭のディレクター、配給会社の担当者などの好みを知り尽くす彼は、映画を観れば、(これは○○映画祭のXXが飛びつくだろう。配給会社は△△がつく)などと分かるのだそうです。

これまで行った映画祭での様々なエピソードも話してくれました。お酒が大好きで、それが原因で奥さんに捨てられたという彼は、映画祭やスポンサーが主催するパーティーが大好き。中でも一番クレイジーなパーティーは、ヘルシンキやエストニアあたりで開催されるものだと言っていました(←あくまでも彼の個人的な体験に基づくものですが・・・coldsweats01)。酔っ払いを運ぶ専用のヘリコプターが用意されているパーティーまであったそうです!

私の隣に座っていたポルトガル人監督のフランシスは、「Still Life: Faces of a Dictator」という作品を作りました。映画祭には、プロデューサーである夫と、息子と共にやってきていました。映画は、ポルトガルで1926年から1974年まで48年間続いた独裁政権を、当時使われたアーカイブの動画(ニュース、戦争記録、プロパガンダ、政治犯の写真など)のみを用いて、インタビュー、ナレーション、テロップなどを一切加えずに制作したというドキュメンタリーだそうです。長編としては二作目の作品。

過去の記録映像のみで、ナレーションも一切なしという形態の作品は珍しいからか、完成した2005年に各国の映画祭に応募した当初は、全くの鳴かず飛ばずという状態でした。申し込んだ全ての映画祭で落選したのだそうです!

それが、映画祭ではなく、何かの学会かコンファレンスのような場所で上映される機会があり、それに偶然出席したある国際映画祭のディレクターが「この映画、私は見逃してしまっていたのではないかしら?」と言って、いったんは断られた映画祭で翌年に上映されることになったのだそうです! その映画祭で上映されたことがキッカケで、その後は各地の様々な映画祭で上映してほしいと声がかかるようになったとか。彼女曰く、「映画祭は繋がっている。一番大事でかつ一番難しいのは、”get your foot in the film festival circuit”(映画祭の回路の中に、うまくもぐりこむこと)」と言っていました。映画祭の循環の中に、うまく入っていくことが出来れば、各地の映画祭で上映されるようになる、まずはその輪の中に入っていくことが肝心、と言っていました。

確かに、それはあるような気がしました。私は自分の映画はそのサーキットに入っているとは言えない状態ですが、でも、今回映画祭に来てみて、映画祭を運営する人々、そして映画祭に出品する人々が、様々な国で既に会ったことがあって顔見知りだったり、同じ情報を共有しているということが良く分かったからです。世界は繋がっているともいえますし、世界は意外に狭い(というか狭いところで動いている)とも言えます。

さて、では一体どうやって、その”フェスティバル・サーキット”に足を踏み入れるのか? これについては、海外の映画祭に自分の作品を出品したい人必見のドキュメンタリー映画があります! この映画、日本ではまだほとんど知られていないと思うのですが、アメリカのドキュメンタリー映画で、インディペンデントの映画制作者が、あれやこれやの手を尽くして映画祭に応募し上映するまでの過程を描いたものなのです! 私は偶然観られる機会があったのですが、それはもう、抱腹絶倒でした。 

映画のタイトルは「Official Rejection」 
http://www.officialrejectiondocumentary.com/MAIN.html
(皮肉なのは、このドキュメンタリーの被写体となっている映画・映画制作者よりも、それを追ったこのドキュメンタリーのほうが、各国の映画祭で絶賛されているという点・・・)

アメリカのインディペンデント系の映画祭として超有名なサンダンス映画祭(昨年は200本の上映枠に9800本の応募があったとか!)の謎に包まれた選考過程、そしてそのほかの有名・無名の映画祭を、映画祭のディレクター、配給会社、映像製作者などが語りつくします。日本語字幕はおろか、英語字幕もついていないし(映画自体は全て英語のダイヤログ)、アメリカのアマゾンからしか購入できないのが難点ですが、でも、海外の映画祭に出してみたい、海外の映画祭がどんな様子か知りたいという人にはオススメです!(この映画に出てくる映画祭はアメリカのもの中心ではありますが)。

さて、話がだいぶそれてしまいましたが、フランシスの話に戻ります。彼女の本業は大学で金融学を教える教授なのだそうです。彼女の大学は、研究のために教員が2年までの有給休暇をとることが出来るため、彼女はその休暇を利用して映画を作りました。近々また1年の休暇をとるので、それで次回作を作る。映画は全て大学教授としての収入から作っていて、映画そのものからはまったく収入を上げていない、と言いました。他の監督たちも、テレビ局から請負の仕事をこなしながら、自分の作品を作り続けているという人や、家族に養ってもらっているという人もいました。

日本でも色んな映画祭に参加させてもらいましたが、ドキュメンタリー映画で長く活躍し、知名度のある監督さんたちでも、経済的には大変だったり、別の仕事をしながら作品を作り続けているという人を多く見て来ました。でもこれは、日本に限らず世界的に同じような状況なのだと感じました。(トルコの映画祭では、沢山の国際的に活躍しているドキュメンタリー製作者たちに会えましたが、ドキュメンタリーだけで商業的に成功し、潤っているという人には、ついぞ出逢いませんでしたgawk!劇映画の製作者の事情には詳しくありませんが、特にドキュメンタリーの世界では、知名度と商業的な成功は必ずしもイコールではない!と感じます・・・)。作品をどうやって作り続けていくか、これは全世界のドキュメンタリー製作者に共通の問題であると考えます。

食後のデザート。熱々のチョコレートケーキにアイスクリームとカスタードをかけていただく高カロリー食。
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レストランでのディナーは23時ごろにお開きになり、皆でホテルに戻りました。帰り道は、ブラジルの女性映画監督・ダニエラと話しました。彼女の作品は、リオデジャネイロの貧困地域で暮らす人々が、コミュニティーを形成し、自分たちの力で生活を変えていく様を描いたドキュメンタリー。最初は90分の作品だったそうですが、彼女の作品を観て興味を持ったプロデューサーが、「短くするなら自分がプロデューサーを引き受ける」と言って、短くすることを決心したそうです。

撮影も編集も自分で行ったという彼女にとって、90分を70分に削るのは至難の業。彼女はこれ以上削るのを自分でやるのは無理、と考え、3人の人にアドバイスを求め、それで削る部分を決めたのだそうです。その3人とは、新たに雇った編集者、アーティストの母親、そして協力を申し出たプロデューサー。特に母親の意見が参考になったと言いました。最終的には、出た意見に自分の考えを混ぜて、決断したとか。

オリジナルと、70分バージョンのどちらが気に入ったかと聞いてみました。彼女は、70分にしてみて、最初は削りたくないと思う部分もあったけれど、ストーリー展開がテンポ良く進んで、よくなったと思うと言いました。でも、泣く泣く削ってしまった箇所は、DVDを販売するときの特典映像として復活させたそうです。

ホテルに到着し、一日を終えました。

さて、翌5日はお昼頃に起きてポールと共にイスタンブール市内を観光しました。路面電車で旧市街に向かい、アヤソフィア博物館を見学。ここは、ギリシャ正教大本山としてあがめられていた教会ですが、後にイスラム寺院に姿を変えたという、歴史に翻弄された建物です。そのため、建物の内部には、ギリシア正教時代に作られたモザイク画、イスラム寺院になってからのミフラープ(メッカの方向を示すもの)が混在しています。

博物館入り口
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内部の様子
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アヤソフィア内部の、ある柱の周りに人だかりが出来ていました。近づいてみると、柱にくぼみがあります。
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これは「マリアの手形」と呼ばれる柱で、柱のくぼみに親指を入れて、あとの4本の指の指先で、柱から離すことなくぐるりと円を描けたら願い事がかなうといわれています。それで沢山の人が列をなし、円を描けるかどうかに挑戦していたのです。

ポールも挑戦!
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うまく円が描けたかどうか聞いてみたところ、「あんなの絶対無理!」だって・・・coldsweats01

博物館の2階の様子
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これが有名なモザイクの壁画。モザイク画はイスラム寺院に変えられた際に漆喰で塗りつぶされてしまいましたが、1931年にアメリカ人の調査隊によって壁の中のモザイク画が発見されたそうです。
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オリジナルは損傷が激しいですが、傷んでいなければこのような絵であったはずと、小さなレプリカも飾ってありました。
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アヤソフィア見学の後は、ご飯を食べることにしました。スルタンアフメット地区のレストラン街を歩いていると、あちこちの店員さんから声をかけられます。話を聞いていると、どこも良さそうですし、怪しそうだったりもします。レストランの2階からブルーモスクとアヤソフィアが一望できるというレストランに入ることに決めました。

きれいな眺めのレストラン
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前菜のホムス(ヒヨコマメのペースト)とパン。日本やイギリスで食べるホムスと違って、塩気は強くなく、他のハーブ類も混じっていなくて、豆そのもの!といった感じのつくりでした。
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メインはオスマンスタイルのプレートというのを頼んでみました。野菜とラム肉のトマト煮込みに、パイとチーズを乗せ、オーブンで焼いた料理。めちゃくちゃ美味しい!!
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食事の後は路面電車に乗り、新市街へ向かいました。

路面電車の中の優先席ステッカー。
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食事の後、新市街に戻ってブラジル人監督ダニエラの作品を観ようと思っていました。映画祭の会場は新市街に集中していると記憶していた私でしたが、いざプログラムを広げてみると、1会場だけが新市街から船に乗っていくアジア側の会場にあることがわかり、ダニエラの作品はそこで上映されるのでした。上映開始まで後ほとんど時間がありません。残念でしたが、彼女の作品を観るのはあきらめ、別の作品を観ることにしました。

イスティクラル通り沿いにある上映会場で、なおかつ今の時間でも間に合うようなものを・・・と思いながら、イスティクラル通りを進みます。

相変わらず大混雑のイスティクラル通り。Dsc06649

スケジュール表は映画の題名しか書かれていないので、どんな映画なのかはさっぱり分かりませんでしたが、イスティクラル通り沿いにあるTarik Zafer Tunaya Kultur Merkeziという会場で、30分遅れでMurder File Hrant Dinkという作品を見ることにしました。薄暗い会場に入って、着席。しばらくして、これはトルコの映画で、英語字幕なしということが発覚coldsweats02。最後まで何が起こっているのかさっぱり分かりませんでしたが、とりあえず観ました。

映画の後は、21時にタクシム広場でアブドラとベヤズと待ち合わせをしました。そうです、トルコの民俗音楽が聴けるディスコに行こうという約束のためです! 夜になって、更に賑わいを増したイスティクラル通りをまた歩いていきます(滞在期間中、一体何往復したのか分かりません!)。イスティクラル通りをしばらく歩き、通りを1本入ったところに、ディスコが入っている建物はありました。

イスティクラル通りにも映画祭のポスターが掲げてありました。
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”ディスコ”と聞いていたので、クラブのようなものを想像していたのですが、店内は明るく、前方の小さなステージにライブバンドの演奏があり、レストランのような配置でテーブルが並び、お酒を飲み、軽いおつまみや食事を取りながら演奏を聴く、というスタイルでした。
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テーブルには小さな紙切れが何枚か置いてあります。それに聴きたい曲を書いてバンドにリクエストをすることが出来るのです。
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座って演奏を聴くものと思っていたら、お気に入りの曲がかかると、次々に席を立ち、後方にあるスペースで輪になって踊りだします!
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ケンカしたから行かないかも、と言っていたイルディスもやってきました! テーブルに座ったままでも、皆踊ってますhappy01
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大体23時を過ぎる辺りから盛り上がるということだったのですが、翌朝早くにポールは空港へ向かわなければならないため、23時半頃にお店を出てホテルに戻りました。

遅くなればなるほど、人が多くなるイスティクラル通り(建物の上から撮った写真)
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イスタンブールのエネルギーに圧倒された一日でした!

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