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[jp] 社会問題を記録するということ

昨夜このブログに書きましたとおり、1月29日の『空っ風』上映会は中止となり、中村葉子監督の講演会に変更になりました。当事者の方から申し入れ文書を頂いたのが25日。私にとってはまさに「寝耳に水」の出来事でしたが、この2日間(現在も続いていますが)、中村監督、当事者の方、そして今回の件について相談した住民の会の方々、菊池さん、寺澤さんなどとのやり取りは、私自身にも「社会問題を記録するということはどういうことか?」、「”信頼関係”とは?」など、様々なことを考えるきっかけとなりました。

この問題は中村監督と当事者の間で生じた問題ではありますが、でも、私も東京で上映会を主催しようとした立場であり、私自身もドキュメンタリーの監督として、常に起こりうる問題でもあります。自分に起きていることなのだ、という気持ちで最善の対応をしたいと思い、一昨日から駆け回っています。

今回の上映中止となった発端である、制作者と映画に登場する当事者の関係については、それぞれから説明していただくほうが良いし、私が自分で解釈したものを書くとそれはまた別の問題を生む危険性があるので、ここでは書きません。今回の一連のことを通して、私が考え、経験したことを、映画作りの一般論に置き換えて書きます。

今回の問題が起こった時に、どうしようかと考えて、まず思い浮かんだのが菊池さんでした。問題が起こる数日前にメールのやり取りをしていて、ビンアイの監督フォン・イェンと最近、被写体となる人のプライバシーや向き合い方について話をしたということ、これから取り組むお仕事が養護学校の生徒を追ったもので、作品の構成や編集について制作者と議論したこと、などが書かれてあったのです。「最近は家庭用カメラでも撮影できるから、カメラはどこにでも入っていけて、とりあえず”撮る”ことは誰でもできてしまう。関係性がなくても。それはとても危険なことだ」と言ったようなことが書かれてありました。

菊池さんとスカイプで話して、まず相談するのに必要な一連の出来事を話しました。今回の件について、当事者と制作者側の間では、どういう目的で撮影がなされたかというのについての双方の見解が大きく食い違っています。当事者側は弁護士を通じてNDSと知り合い、撮影を依頼した目的を以下のように説明しています。

「強制執行現場撮影の目的は、国際人権条約に基づく国連社会権条約委員会への政府報告書審査に伴うカウンターレポートの資料とするため居住の権利侵害の実態を記録することにあり、一般公開用に映画化することに同意したことはない。」

一方で、制作者側は制作の過程で「映画祭や映画館での上映などで、この問題を広く知らせたい」と言い、それについて当事者も理解してくれていた、旨のことを言っています。(でも、今となっては「言った」、「言わない」という状態ですが)。

しかし、最初に弁護士からNDSに対して、どんな形にせよ記録の”依頼”があったのは双方が認めているのですが、菊池さんは「映画を作る、作品を作るという時点で、”依頼”というのが間違っている。もし”依頼”されたとしても、自分が作品を作る以上は、それは自分の作品なのだから、”依頼では作りません。これは私の作品です”ということをはっきり言うべきだ、その見解を相手にもはっきりと分かってもらうべきだ」と言っていました。

”依頼”で作品を作ると、それはお金を拠出する(スポンサーになる)かどうかに関わらず、”依頼者”は”依頼”したのだから、自分の望んだとおりに記録してほしいし、映画ももちろん自分たちの望んだもの、広報資料となることを期待します。自分にとって不都合なものを撮影したり、ましてや自分の意に反して撮影や編集、完成作品の上映が行われるのは許せないことです。

でも、制作者はそんなつもりではないのですから、最初はこの問題に対して知らされて、「撮ってほしい」と言われたのだとしても、実際に撮る時点になったら、自分の作品を作るのだということを明確に知らせ、理解してもらったうえで作るべきだ、とのことでした。

撮る側、撮られる側の”覚悟”の話にもなりました。菊池さんは、小川紳介監督の三里塚シリーズの時の話をしました。最初から被写体の人たちに受け入れられていったのではない。苦労して、時間をかけて相互の信頼関係を作り(カメラマンの逮捕も大きなきっかけとなった)、あの撮影が可能になったのだ、と。いったん受け入れられてからは、カメラはどこにでも入っていくわけですが、カメラがそこにあるということで、集会なども被写体となる人たちは(きちんとしなければ)という気持ちが芽生えていく。お互いに”覚悟”が生まれる。撮る側、撮られる側がお互いに成長していく、そういう関係になっていったのだ、と。それこそが、社会運動に対して、カメラがどう関わり、どこに向けてカメラを持ち、お互いに作用しながら発展していくことではないのか?と。

社会問題を取り上げたドキュメンタリーやジャーナリストなどというと、私自身はこれまで「社会問題を記録し、伝える。伝えることによって将来世の中が良く変わって行ってほしい」という考えでやってきたのですが、映画作りを通して、自分自身も成長させてもらえたというのを後から実感するのですが、それはそもそもの映画作りの目的ではなく(主目的は”社会問題を伝える”だと自分では思っているから)、”副産物”のように考えているところがありました。

でも実際は、私自身が見ている(と思っている)事実も、見方を変えれば客観的な事実とはいえないものであり、またそもそも何を持って事実なのか、事実は存在するのか?という問題もあり、結局は”自分の伝えたい思い”を表現しているに過ぎないのかもしれません。社会問題を伝えるというのではなく、映画作りを通して、撮る側・撮られる側が成長し、人間関係をはぐくみ、いかに濃密な思いを共有できるのか、それこそが映画を作る原動力で、そういう関係が映像にも表れたら、そこに観る人が共感してくれる・・・。そういうものなのかもしれません。私自身、上手く言葉に表現できないですが。。。

作り手側の覚悟というのは、それは単に「逮捕されても構わない」とか、そういうことだけの覚悟ではありません。例えば、菊池さんは土本典昭監督が水俣についてドキュメンタリーを作りたいと思い始めた頃の話をしてくれました。周囲に「水俣のドキュメンタリーを作らなければと思っている」と漏らしたところ、「ドロちゃん、あの問題に関わったら一生だよ」といわれたそうで、その時土本さんは「分かってる」と答えたのを菊池さんは実際に聞いたのだそうです。

撮られる側の”覚悟”についての話になりました。ビンアイの監督、フォン・イェンが、ある女性のドキュメンタリーをこれから作りたいと考えているそうですが、その女性はセンセーショナルな面にばかり観客の注目が集まってしまう危険性もあるそうで、でもそれは監督の本意ではない、どうしたらよいか?という相談でした。菊池さんはそのときに、たとえ他人からは白い目で見られてしまうような出来事でも、(この人なら分かってくれる)と当人が思えば、それは話してくれるものだよ、そんな信頼関係が出来たなら、あとは相手の方から(もっと話したい)と思ってくれるものだよ、と答えたそうです。(この人にだったら・・・)という信頼関係があって、そして自分のプライベートな部分や、他人からみたら本人にとってマイナスと思うようなことでも、晒す”覚悟”が生まれてくるのだ、と。

今回の件に関しては、菊池さんにも全てを詳しく説明したわけではないですし、私自身も経緯を全て把握しているわけではないので、語弊があるかもしれませんが、撮られる側の”プライバシー”に関しては、隠し撮りでもない限り、当事者本人が”裁判”という公の行為をして問題を知らしめようとしている人なのだから、”強制執行”という公の場面を撮影するというのがプライバシーに当たるのかどうか?と言われました。

ちなみに、映画の中で執行官が撮影を止めさせようとして、それに対して弁護士が「撮影をさせない法的根拠は何か?」と詰め寄るシーンがあります。執行官は法的根拠を言えず「後で文献を送りますから、今はダメ」とかわそうとします。その時点ではまだ当事者と撮影者の関係が悪化していないため、両者は法的根拠のない(言えない)撮影禁止に対して抗議します。果たしてそれらの映像に対して”プライバシー”があるのか、ないのか。。。そして、”裁判”という行為で国家や大企業の不正を暴くことを選んだ人は、そこから生じる不都合(例えば、身内の就職や結婚で不利になるかもしれないetc)をも引き受ける”覚悟”を持っているべきではないのか? そういった問いかけもありました。

これらの問いかけが今回のケースにも当てはまるのかどうかは、このブログを書いている私の本意ではないので避けますが、でも、作り手側だけではなく、被写体、社会運動を起こしている人にも問われる”覚悟”というのは、私はこれまでほとんど考えたことがありませんでした。

長くなってしまいましたが、ここに書いてきたことは全て、撮る・撮られるが簡単にできてしまうようになった現在だからこそ、私たちが深く考えなければならない問題だと思います。私自身は、本当の意味で”撮る”、”映画を作る”ということを正面から考えたことがなかった、といえると思います。昨夜ブログに掲載した上映中止、講演会に変更のお知らせ文の下書きを書いたとき、中村監督、当事者の方に確認をしてもらい、私が文中で「被写体」と繰り返し使う事に対し、当事者の方から「モノ扱いですか?」と言われ、自分がしょっちゅう使う”被写体”という(便利な)言葉に対して、撮られる側はそんな風に受け止めたりするのか、と自分がこの言葉をこれまで無自覚で使ってきたことを気づかされました。そして映画を作る、それを公の場で上映することについての私の考えについても、色々指摘していただき、自分は何だかんだ言って、基本的には「作り手主義」の立場に立っていると自覚しました。無自覚でここまで続けてきた自分は、ずいぶんおめでたい人だな、と思いました。

1月29日の上映会は中村監督の講演会に変更になりましたが、作り手、私の映画にも登場される73号棟の住民の方々、社会運動に携わる方々が集い、社会問題を記録するということ、社会運動に映像がどう関わっていくのかということを、深く、双方向に議論する場にしたいと思います。

上映会を楽しみにしてくださった皆様には申し訳ありませんが、もしご都合が合いましたら講演会にいらしてください。

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