[jp] コミュニティのパワー(ソウル第5日目)
ソウル5日目の4月24日。この日の予定は午後からだったので、朝は10時におきました。睡眠時間は割と確保していましたが、寝つきが悪く、ソウル滞在中は毎日睡眠不足気味でした。
午前中は郵便局に行き、ソウル女性映画祭からもらった公式カタログ4冊と、SIDOFからもらった公式カタログ3冊を、郵便局から日本宛に送ることにしました。重さ、なんと4.5キロ!! EMSで送ったら、送料は2300円ぐらいでした。行きの時点から撮影機材などで既にスーツケースはあまり余裕がなかったし、こちらに来てからDVDや資料などを日々頂いているので、送料を払っても郵送したほうが体が楽と考えたからでした。
お昼ごはんは、近くのスーパーで買ってきて食べました。
あまりにも味気なく見えたので、せめてお皿に移します。。。
この日は、午後2時から、ソウルの貧困問題に詳しいナ・ヒョウさんと会う約束になっていました。出発前にネットでソウルの住宅問題について検索していた時に、昨年11月に、千代田区にある「日本希望製作所」事務所にて、ナ・ヒョウさんが「大都市ソウルにおける住宅の貧困問題」と題した講演をされたというレポートを見つけて、興味を持ったのでした。
ナ・ヒョウさんのプロフィール(「自由と生存の家」ウェブサイトより引用)
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韓国や東南アジアにおいて貧民運動に携わり、都市貧困層の全国協議会事務局長、アジアNGOセンター(フィリピン)代表を歴任。2009年に(株)善良な旅行を設立し、雇用労働部より社会的企業と認証され評価を得る。
現在、(社)持続可能な観光社会的企業ネットワーク理事長、全羅南道生態文化探訪路選定審査委員、環境部三地域生態観光農山漁村地域支援事業、TFT代表なども務め、全国農漁村生態観光教育プログラム、アジア生態観光社会的企業フォーラムの開催などにも取り組む。
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自由と生存の家の菊地さんのイベントレポート(「自由と生存の家」ウェブサイトより抜粋)
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開発や都市化・産業化により生まれたスラムなど貧困地域の居住権を守る運動は世界中でおこなわれていますが、韓国でも、再開発に伴う強制撤去や移転に反対する運動などがさまざまに取り組まれてきました。今回「住居権実現のための国民連合」や「ASIAN BRIDGE」などが、ソウルの貧困地域コミュニティの住環境の改善や社会福祉に取り組むために行った実態調査に委員長として参加した羅孝雨(ナ・ヒョウ)さんが来日されたのにあわせて、日本希望製作所のセミナーとしてお話をうかがう機会をつくりました。
現在、韓国の人口約5千万人うち、持ち家率は約55%となっています。持ち家率は、1970年代には70%以上あったものがこの40年で大きく減少しました。特にソウルでは持ち家率が44%と全国平均を下回っています。残りの非持家世帯(44%)のうち、最低住居基準を満たさない人が全体の約7~8%おり、地下や屋根裏、穴倉などの粗末な家に住んでいます。
このような状況になってきた理由として、
①住宅が商品となり、投機の対象となっている。
②再開発時に地主・家主の権利のみを考え、住人の権利を考えていない。
③住宅に対し福祉的なアプローチをするといった政府の政策がない。
の大きく3点あげられるといいます。
ソウルの貧困層の住宅で典型的なのはチョッパン(ドヤ)とビニールハウスです。中でもビニールハウスは、瑞草(ソチョ)区、江南(カンナム)区、松坡区(ソンパ)区といった漢江南岸にあるお金持ちが多く住む地域に沢山あり、調査によればソウル市内では38か所にのぼります。現在約2万人がチョッパンやビニールハウスに暮らしているそうです。
ビニールハウスはもともと住宅建設に規制がある農地をブローカーが借り受け、農業施設として建てられますが、それを低い家賃(1万ウォン程度)で貧困な人々に転貸されます。世帯当たりの面積や1ハウス当たりの入居者は地域により様々だそうです。もちろん違法状態なので当局は撤去しようとしますが、実際に人が住んでしまうと行政も「ホームレスになるよりは」と黙認せざるを得ない状況が生まれます。ブローカーとしては、人が住むという既成事実を作るのが目的なので、家賃は非常に低くなっています。多くの場合、ビニールハウスが建つ地域は塀で覆われ、周りの人もそこが住宅であることに気づきません。しかし、冬になって火事がおこり(放火であることが多い)、初めて周辺の人もそこに住宅があることを知ることもあるそうです。やがて、その土地の値段は上がっていき、いつの間にか規制が外れ、マンションなどが建設されることになります。要は、貧困層を利用して規制外しと地上げを行っているようなものでしょう。
ナ・ヒョウさんたちは、このような現状への対案を考えています。住宅を建てるには、土地・資材・労働力が必要ですが、ソウルのような大都会では土地を確保することが最も難しく、現在、ソウル市に対し土地を提供するよう協議しているところです。ここでも、先日の市長選の影響は大きく、以前は「ソウル市には空いている土地は全くない」という返事しかなかったのが、市長が変わったとたん「土地も空いているし、予算もある」という話になってきたとのこと。
ナ・ヒョウさんは、コミュニティの中の貧困に大きな関心を持っており、いわゆる「住宅政策」として行政が住宅を用意して人々を住まわせるということでなく、コミュニティづくりの運動と関わって、貧困者自らが住宅を作っていく運動を模索しているそうです。
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日本同様、居住福祉という観点なき都市開発、住宅市場が投機目的となってしまっている状況などについては察することが出来ましたが、「農業用ビニールハウス」に住んでいる人たちがいる、住宅として使われている、というのに、とても驚いてしまいました。一体どうやってビニールハウスに住んでいるのか。夏はものすごく暑いのではないか。透明のビニールの状態で暮らしているのか。内部をどのように改造しているのか。。。
様々な疑問・質問が浮かんできて、ぜひソウルに行ったらお話を聞いてみたいと、日本希望製作所に連絡をして、ナ・ヒョウさんを紹介していただきました。
2時にナ・ヒョウさんの会社のある淑大入口駅で待ち合わせをして、歩いてASIAN BRIDGE事務所へ行きました。ここは、「善良なる旅行社」の事務所と合同で使用しています。
地下鉄駅構内の様子
ASIAN BRIDGEと善良なる旅行社入り口
こちらは善良なる旅行社のオフィススペース
ASIAN BRIDGEと善良なる旅行社のパンフレットをいただきました。
予定では、約1時間インタビューをさせてもらい、韓国およびソウルの住宅政策の変遷(政治、社会、経済情勢の変遷と絡めて)、ナ・ヒョウさんが関わってきた住宅運動、ソウルの、特に貧しい層の住宅問題、居住実態、そしてそれらの解決のためにどのような運動や流れが起こっているのか等をお聞きすることになっていました。
しかし、予定に変更があり、3時から車で30分ほど離れた有名なコミュニティーに見学に連れて行ってくれることになり、インタビューの時間はその分30分短縮する、ということになりました。貧民コミュニティーに連れて行ってくれる、ASIAN BRIDGEのボランさんが、その後タイに向かうことになっていたので、彼女は5時ごろにはコミュニティーを出発しなければならず、それで予定が前倒しになったのでした。
ちょっとあわただしいインタビューにはなってしまいましたが、ナ・ヒョウさんが貧困問題にかかわるようになった経緯や、ソウルの住宅の貧困問題などについて、興味深いお話を聞くことが出来ました。
インタビュー終了後、ナ・ヒョウさんはお仕事のために事務所に残り、ASIAN BRIDGEのボランさんと、ASIAN BRIDGEで現在インターンをしているソウル大学・大学院で建築学を学ぶ学生のヨウサンとともに、タクシーでコミュニティーのあるPoi-dong(ポイドン)へ向かいました。
ポイドン・コミュニティ外観
ポイドンに関する資料とテレビで放送されたときのDVDをいただきました。ポイドンに関しては、ネットで検索しても英語や日本語の資料は、断片的に伝えるものしか私は見つけることが出来なかったので、きちんと歴史や背景を説明した英語の資料がもらえて良かったです。
資料とこのコミュニティで行ったインタビューより、超簡単にこのコミュニティの概要を説明します。このコミュニティはPoi-dongとかJaegunコミュニティなどと呼ばれているのですが、始まりは1981年。韓国政府は全国の戦争孤児や野宿者をこの場所に集め、警察の監視の下、自力で生活し、労働していくようにしたのが始まりでした。1982年には、住民の数は2300人になりました。
ここに強制的に人を集めた当時は、このあたりは辺鄙な土地と考えられていましたが、やがてソウルの都市が拡大発展し、川沿いで景観の美しいこのエリアは高級住宅街になりました。すると政府はこのコミュニティの存在が土地の景観を損ねていると考えるようになり、1988年のソウルオリンピック開催時には、オリンピックが終わるまで政府はここの住民を強制的に外に出さないようにしました。
この土地は政府の所有地ですが、ここの歴史によって地名は何度も変わり、ここで暮らす住民たちは、不法占拠であるとして長らく住民登録を拒否されてきました。(←それは国民として政府からのサービスや援助を受けられないことをも意味します)。元は政府の都合でこの土地に住まわされたのだから、自分たちは不法占拠ではない、と住民たちは主張しています。しかし、今や高級住宅街になったこのエリアで目障りな存在であるこのコミュニティを無くしてしまいたい政府は、ここに住む住民たちに不法占拠の罰金として6万~8万米ドルの罰金を各住民に請求しています。
住民調査によると、ここの住民たちの所得水準は非常に低く、年収3万円程度しかないという人も少なからずいます。リサイクル業、清掃業、露天商などの職業に従事する人が多く、無職の人も3割以上。貯金がない人は9割以上に上ります。6万米ドルの罰金を払える余裕のある人はいませんし、ここを追い出されたら、自分で住まいを確保するのも難しいでしょう。
昨年の6月12日、このコミュニティで大火事が発生し、このコミュニティの大部分が消失してしまいました。発端は、このコミュニティの住民ではない、9歳の男の子の火遊びが原因でした。このコミュニティの家々は、掘っ立て小屋のような状態であるため、家の素材は燃えやすく、小さな火は一気に燃え広がってしまいました。
住民たちはすぐに消防に通報しましたが、消防車の到着はとても遅く、しかも、水を積まない状態でやってきたため、多くの家が失われました。(この消防の対応に対し、住民と支援者たちは、コミュニティを排除するため火事を好機と捉えて、わざと消火活動を遅らせたとして、今も争っています)
なんと、96軒のうち、75軒が焼失してしまいました。日中だったため、仕事に出ていた人が多く、幸い死者は出ませんでした。この火事は全国の注目・関心を集め、コミュニティの住民のために新たな家を建てようと、全国からボランティアと建築資材が集まりました。住民とともに、新たな家を建設しながら、現在に至っています。毎週行われる住民ミーティングにはほとんどの住民が参加し、コミュニティの運営に積極的に関わってもいます。
現在、ここで起こっている一番大きな問題は、この敷地内に政府が公営住宅を経てようとしていることです。「公営住宅を建設する」と聞くと、日本では聞こえが良いように聞こえるかも知れませんが、こちらではそうではないようです。既に超高級住宅街(六本木ヒルズのようなタワーマンションがそびえています)となった、地価の高いこのエリアで公営住宅を建設すると、家賃は地価を基に算出されるため、公営住宅とはいえ普通の人(ましてやこのコミュニティの人)が住めるような家賃ではないわけです。政府は「公営住宅を建てたら、あなたたちもここに住む権利がある」と言っていますが、現在は無家賃でここに住んでいますので、権利は与えられても高額な家賃を払えないのですから、それは絵に描いた餅でしかありません。公営住宅の建設に反対し、このコミュニティを存続させるために住民の人たちはたたかっています。
…と、以上が簡単ではありますが、ポイドンコミュニティの歴史です。以上に書いたようなことと、詳しいここでの暮らしなどを、このコミュニティのサポーターであるパク・ジャンジャエさんにインタビューでお聞きしました。ボランさんに英語で通訳をしてもらいました。
インタビューはコミュニティの集会所2階で行われました。
集会所外観
共有キッチンも備わっています。
インタビューの様子(向かって左側はASIAN BRIDGEのボランさん、右側はポイドン・コミュニティの支援者のパク・ジャンジャエさん)
インタビューが終わったあとで。
インタビューが終わると、ボランさんはタイに向かうために空港へ出発しました。
集会所から、コミュニティの家々(手前)と、すぐ近くにそびえたつ高級マンション。この位置から写真を撮るのが、このコミュニティの歴史と、現在置かれている状況を示すのに一番わかりやすいように思いました。
集会所の屋上に上り、ジャンジャエさんに近隣を説明してもらいました。近隣の住民とここのコミュニティは交流があるのか?と聞いたところ、支援者は全国からやってくるが近隣からは孤立していると言っていました。(住宅問題や社会運動にありがちですが…)
家の屋根は、風で飛ばされないように古いタイヤや石、材木、鉢植えなどで押さえられています。
古い家は火事で無事だった家。青い屋根の家は火事のあとで新たに造られた家
実際にコミュニティ内を歩いて案内してもらいました。
毛布(?)チックな素材が外壁に張り巡らされていますが…。これは防寒のためなのでしょうか? 確かに、火事になったらすぐに燃えてしまいそうです。
新しい家の内部は広々としています。
新しい家の外壁には、美術大学の学生たちが絵を描きました
ここのコミュニティの繁栄と幸せを願った絵
韓国では、豚は幸せの象徴なんですって。
ここは子どものためのスペース。図書館にもなっていて、寄贈された本を借りることが出来ます。ボランティアの大学生たちが、ここに住む子どもたちに勉強を教えたり、火遊びなどしないような教育も行うということでした。でも、”勉強”よりも、ここに住む子どもたちが、卑屈にならないよう、貧しいからと地域で萎縮してしまわないように、のびのびと暮らせるような心を持てるようにすることに力を置いていると話していました。
共同の畑で野菜も栽培されていました。
なぜかカップラーメンの自動販売機が!
家には表札も掛けられています。
家はまだまだ建設続行中~
新しい家、とても快適そうでした。ジャンジャエさんに、「ここには新たに引っ越してくることも出来るのですか?」と聞いてみたのですが、当局により、新たな住民を迎え入れることは禁止されているのですって。(今住んでいる人たちがいなくなれば、ここは終了)。もし新たに移り住むことが出来るなら、私ここに住みたい!って思ったんですが(←かなり本気)、残念だわ。
集会所の1階内部
食糧や毛布なども沢山備蓄されています。
このコミュニティのこれまでの歴史が写真で展示されていました。
放射能の防護服?照る照る坊主?な、この全身白尽くしの衣装によるパフォーマンスは、住民登録を拒む政府に対し、「自分たちは名無しの幽霊の存在なのか!」と抗議するパフォーマンスなのだそうです。
集会所2階に戻り、過去の写真をみながら詳しく説明してもらいました。
この集会所は現在2階建て+屋上スペースですが、一時期は4階建てだったそうです。しかし、当局の指摘で階層を減らしたとか。
警察との衝突時、バリケードで腕を痛めたおばあさん
おばあさんの腕が真っ青だったのでびっくりしましたが、これは”あざ”によるものではなく、治療のための薬の色だそうです。でも、激しい衝突だったのだということがこの写真から伝わってきます。
火災直後の様子。全国からボランティアが集まり、片づけを手伝います。
焼け跡を清掃し、リサイクル用の鉄を分別するボランティア
火災後、ボランティアの協力により家を建て始める様子
昨年末まで、毎週文化コンサートがこのコミュニティで行われ、ライブやパフォーマンスが繰り広げられていたんですって! 写真は、ブロードウェイでも活躍する有名な韓国の歌手(名前は失念)が、ブロードウェイでの講演後にこのコミュニティを訪問し、ライブを行った時の様子
お話を伺っていたら、あっという間に6時になってしまいました。私はこの日、7時から映画祭会場近くで、映画祭主催のパーティーに出席する予定でした。ポイドンからシンチョンまでは、ソウル中心部を横切るので電車で結構かかります(船橋から阿佐ヶ谷まで、みたいな感じ)。そろそろ出発しないと間に合いません。
共同台所で食事の準備をしている女性たちに、訪問させてくれたお礼を伝え、帰りますと言ったところ、「ご飯食べていきなさいよ。マッコリもあるし」と口々に言われました。・・・数秒間考え、「では、そうさせてもらいます!」と返事をし、映画祭のパーティー出席の予定はその時点で消えたのでした。残念と言えば残念だし、結局映画祭では映画を1本しか見なかったけれど、自分にとっては今この場にいて、ここの住民の人たちと同じ時間を共有することの方が大事であるように思いました。
6時からは、ナ・ヒョウさんがこちらのコミュニティにやってきて、ここの住民・住宅運動の活動家・支援者たちとともに、先に述べた公共住宅の建設問題について対策を話し合うことになっていました。ヒョウさんは私を見て「あれ、夜は用事があるんじゃなかったの?」と言いました。私がキャンセルしたと伝えると、「それがいい」と。
会議では、このコミュニティの住民の生活実態について詳しく調査した資料が配られ、私も1部頂きました。家族構成、年齢、ここでの居住年数、仕事、収入、借金など、多項目に渡り、詳細に記されています。
全て韓国語ですが、とても貴重な資料です!
会議は1時間ほど続き、全て韓国語だったので、しばらくはその場にいましたが、そのうち私は一人で外に出ました。
夕暮れ時のポイドン・コミュニティ
住民の人たちが、歩いている私に興味を持って好意的に話しかけてくれるのがうれしかったです。(こちらもオール韓国語でしたので、内容はさっぱり分かりませんでしたが、歓迎してくれている風ではありました)。私にはそれは意外なことでした。
今回、実際のコミュニティを訪問してみたいとナヒョウさんにお願いした時に「大丈夫かどうか(Comfortableかどうか)聞いてみる」と言われていたからです。確かに、外国から、好奇心と興味本位で貧困コミュニティを訪問したいと、カメラを持って訪れる訪問客なんて、嫌がる人たちの方が多いと思います。ましてや、連れて行く側のナヒョウさんは私とも会ったことがなかったので、私が勝手な振る舞いや失礼な態度をするかもしれないという心配もあったでしょう。
でも、ここのコミュニティの人たちが快く迎えてくれたのは、多分ここの住民と支援者との関係、ここを長年撮影してきたインディペンデント・メディアの人たちとの関係が良好だったからだろうと推測します。もし彼らとの関係が悪かったら、私にも不信感を持って、中に入れて撮影させてもらえなかったでしょう。
会議が終わり、晩御飯タイムに!
野菜のうちいくつかは、ここのコミュニティで自家栽培されたもの。いやいや、本当においしく、贅沢な食卓でした。後日、このコミュニティにボランティアに関わっている人に聞いたところ、ここの自家製キムチは美味しいので有名だそうです。私にとっては、どこのキムチも美味しかったので違いはよく和からないのですが、韓国人も太鼓判を押すキムチなんですって。
ちょうどこの日は住民のミーティングが1階であり、夕食の途中でしたが私はそれを見に行きました。
住民たちが熱心に討論しています。
このとき既に9時を過ぎていたので、そろそろ帰り始めようかと思いました。ここからシンチョンまで約1時間。翌朝は10時から延世大学の学生のインタビューを受けることになっていたので、早めに起きなければいけないし・・・などと考えました。ナ・ヒョウさんたちに「そろそろ帰ります」と言ったところ、「まぁまぁ、いいから飲みなさい」と引き止められました。更に10時過ぎから、新たにマッコリ6本を持った人も登場して、エンドレスな雰囲気に・・・!!!!
ご飯を食べ、マッコリをいただきながら、日本と韓国の住宅運動の違いについての話になりました。私は、韓国の住宅運動がなぜこれだけ大きな広がりになれるのか、さまざまな団体や活動の違う人たちがつながれるのか、運動の当事者たちが主人公となって活動できているのか、というのにとても興味を持っていました。
なぜなら日本の場合(というと大きく括りすぎですが)、一般的に住宅問題はそれぞれ個別の問題とされがちで、他の住宅問題を抱える人たちの関心すら呼びにくい状態であること、住宅運動に関わる団体などが様々なバックグラウンドや政党などの違いにこだわり、お互いに主導権争いをし、連帯して運動を行う例がほとんどないこと、住宅問題が起こると、どこかの組織がバックアップするのは力強い反面、当事者たちはまるでお客様かゲストのような扱いで、運動の主体自体は外からやってきた組織が握り、当事者はその運動に利用されてしまいがちなこと、という問題があると思います。(高幡台73号棟でもやや同様の傾向があります)。
その点について聞いてみると、ナヒョウさんたちも、それは大きな問題だ、韓国の場合は当事者の中からリーダーを育て、当事者たちで活動を作り上げていくよう、養成するプログラムがあり、それに力を入れている、と話していました。これまでの運動の弊害から学び、当事者たちが”支援”されるばかりでなく、自分たちの中にある力を引き出し、自分たちで運動を起こしていけるようにすることに重点を置いているそうです。また、何か問題がどこかで起こったときには、主張の違いを乗り越えて様々な団体がすぐに団結する、とのこと。。。この辺の違いが、日韓の運動の違いに現れているように思いました。(しかし、韓国のドキュメンタリー映画「外泊」でも描かれているように、韓国でも大きな労働組合が運動の主権を握り、当事者の中高年女性たちを差別するなど、韓国でも100%理想的な状態とはいえないのですが、でも日本が学ぶべき点は多いと思います)
お話をしていたら、いよいよ11時過ぎとなり、やっと帰ることになりました。最初に「帰ります」といってから、既に5時間経過・・・。
最後に記念写真
ソウル大学の大学院生、ヨウサンと一緒に帰りました。彼女はこのコミュニティに来るのが初めてで、私の取材に同行して色々見れたのでうれしいといっていました。
コミュニティーの外に出ると、住民の人たちが夕食後に集まっておしゃべりする光景が。
貧しいけれども、人のつながりがある。そんなコミュニティの力を見た思いでした。
ポイドン地区の夜景。
駅に向かって歩く途中、労働者の一団が集まっていました。解雇に反対し、ここで夜通し集まるつもりのようです。寝袋もありました。韓国って、ホントそこらじゅうでデモとかストライキがあるんですね。。。それはそれだけ韓国の状況がひどいと言うことかもしれませんし、でも、同じくらいひどくても国民が怒らない日本のほうが異常とも言えるかもしれないし。。。
このエリアの高級マンションの入り口。大きなゲートにはセキュリティらしき人も立っています。
ヨウサンは、大学院で建築を学んでいます。専攻はアーバンデザインですが、学校での勉強や教授&学生たちの関心は都市建設プロジェクトなど大きなものに向きがちで、都市の貧困問題に関心を寄せる人は少数派なのだそうです。(日本の建築学会でも同じような状況だと思いますが)
彼女は大学院を卒業した後の進路はまだ決めておらず、建築事務所に入るか、それとも都市問題に関わるNGOなどに入るか、どうしようかと話していました。家は、おじいさんの代から続くエンジニアで、自営業なのだそうです。現在はお父さんが社長。彼女の弟は現在大学を休学してその会社で働き、将来は継ぐ予定。彼女自身はその会社には全く興味がなく、「男だけが関わればいい、私は嫌」と言っていました。
現在は仁川空港そばの実家からソウル大学まで長距離通学をしていますが、大学生の頃は独り暮らしもしていたそうです。家賃節約のために、屋根裏部屋の部屋を借りていました。屋根裏部屋は夏は暑くて寝られるような状態ではなかったけれど、家賃は相場の半額以下。水道代もタダだったから良かったといっていました。
夏は暑くて眠れないといえば、今回は訪問できなかった農業用ビニールハウスの住居。ヨウサンはASIAN BRIDGEのインターンとして、ビニールハウスを訪ねたことがあるそうです。ポイドンのコミュニティとは比べ物にならないぐらい悪い住環境で、水道や電気、ガスなど生活インフラは一切整っておらず、水を汲んできて生活し、ランプなどをともして電気としているそうです。ビニールハウスは黒い布で覆われて、中は見えないようになっているけれども、夏は暑くてとても住めるような環境ではないのでは?と話していました。
後日、ヨウサンからメールでビニールハウスを訪問した時の写真を送ってもらったので、以下に紹介します。1つのビニールハウスの中に、2~3家族ぐらいが暮らしているそうです(ただしビニールハウスの大きさにもより異なります)
外からは家だとは分からないような感じです。
12時ごろにホテルのある駅に到着し、ヨウサンと分かれました。2時ごろに寝ました。
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