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[jp] 岡山映画祭2012(その5:11月20日)

岡山滞在の最終日、この日は朝7時半ごろに起きて、9時に瀬戸内海にある島・長島へ向けて出発しました。

長島は、1930年に日本で初めてハンセン病患者の療養所「長島愛生園」が設立された島です。島内には看護学校もあり、長年その看護学校に通い教えてきた市場さんが、長島の中にあるお寺で講演をされるということで、私も長島を見学させてもらうことになっていたのでした。

紅葉を眺めながらのドライブ。瀬戸内海の海はとても穏やかで、牡蠣の養殖用のいかだが沢山浮いていました。
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長島へ渡る橋。橋としては短い、たった数十メートルの橋ですが、長年のハンセン病に対する無理解と偏見から、この橋をかけるまでに数十年がかかったそうです。(それまでは船で渡っていました)
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橋を渡ったところに、長島の入り口があり、警備員の詰め所がありました。住民や関係者以外が長島に入り、歴史館などを見学するには、事前の予約が必要で、無断で島内に立ち入ることはできません。警備員はそれを見張っているのかと思ったら(もちろんそれもありますが)、一番の目的は「ゴミの不法投棄の監視」だそうです。

島内をしばらく車で走ります。以下は、長島愛生園の歴史館で頂いたパンフと、パンフに掲載されている島内の地図。
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長島愛生園については、ホームページもあり、ホームページ上で園について簡単に説明されているので、以下に引用します。

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長島愛生園について

長島愛生園では現在400人近い入所者が療養生活をおくっています。この方たちの病気の治療を行い、生活のお世話をすることが愛生園の役目です。ハンセン病そのものは完全に治っていて菌のある人はいませんが、後遺症のために目が見えなかったり、手・足の動きや感覚が鈍くなるなど何かの障害のある人がほとんどです。さらに高齢(平均年齢80歳)のため病気や体の不自由さが増しています。

故郷や家族のもとに帰ることができないのは、体の障害のためだけではありません。1930年に長島愛生園はハンセン病の患者さんを集めて治療する目的でできました。国が作った療養所は13ありますがその第1号でした。当時はよい治療法がありませんでしたが、1948年頃からよく効く薬があらわれ次第に治る人が多くなってきました。若くて障害の少ない人は退所しましたが、世の中のハンセン病に対する偏見・差別はあい変らずきびしく、ハンセン病であったことを隠して社会の中で生活しなければなりませんでした。外見で障害がわかるような人は、家族にまでも偏見・差別の被害がおよぶことを恐れて退所できませんでした。国もこの状況をなおすことができないままに40年あまりが過ぎ、1996年にようやく入所者が自由に社会に出ることができるようになりました。しかしそのときには平均年齢は70歳をこえていたのです。年齢や今もある偏見・差別のためにほとんどの入所者の皆さんは、ここで生涯を過ごすことになります。

このような不幸なことが今後起こらないようにすることが大切で、人権啓発活動に力を入れています。2003年8月長島愛生園歴史館を開館し、愛生園にのこる多くの資料を展示しハンセン病とそれを取り巻く問題についてわかりやすく説明しています。ぜひ一度おいでください。

園長 藤田 邦雄

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島内をしばらく車で走ります。
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過去に事務棟として使われていた建物が、現在は歴史館となっており、ハンセン病の歴史や、愛生園の歴史、今なお残る差別などについて分かりやすく展示されています。これまでは、この元事務棟(歴史館)を境に、手前が非患者(医療従事者や教育関係者、その家族など)、向こう側が患者たち、と厳格に分けられ、入所者(患者・回復者)が近づくことは厳しく制限されていたそうです。

歴史館にたどり着く前に、建物がいくつもありました。これらは職員などが住むためのもの。
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元事務棟(歴史館)が見えてきました。
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この建物は1930年に建てられた当時の建物で、園の運営に関する業務を1996年まで行っていました。(2003年に老朽化した内部を改装し、歴史館として開館)
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歴史館では、ハンセン病の歴史、ハンセン病に関する医学的な知識、入所者の作品展示などがありました。

私自身、ハンセン病の療養所を訪問するのは初めてで、ハンセン病については色んな知識が混同し、知っていたようで、実は正しい知識をほとんど持ち合わせていなかったということが、恥ずかしながら分かりました。

以下は、ご存知の方には当たり前の情報ばかりですが、私と同様にハンセン病について実はよく知らなかったという方のために、歴史館や資料で見聞きしたハンセン病について、簡潔に記しておきます。(もし誤った記述を発見された方は、ご指摘くださいませ)

ハンセン病は、古くは紀元前の書物にも記述が見られるぐらい、長い歴史のある病気です。細菌によって引き起こされる病気とはっきり判明するまでは、遺伝説を唱える学者も多くいました。また、感染すると末梢神経の障がいにより、変形や麻痺が後遺症となって現われる場合も多いため、”業”によるものなどとも言われ、昔から差別の対象となっていました。

後に、ハンセン病を引き起こす菌が発見され、伝染病だということは分かりましたが、有効な治療法が無かったために、国の政策として療養所への隔離が行われました。

アメリカでは劇的に効く特効薬が開発されたのですが、第2次世界大戦中で、日本はアメリカと敵対関係にあったため、その薬を日本でも使えるようになったのは、戦後のことでした。

特効薬により、ほとんどの患者は治癒することができたのですが、末梢神経の障がいによる後遺症は残り、見た目からも後遺症であることが分かりやすく、社会の偏見も根強く残っていたことから、完全に治癒してたにもかかわらず、多くの患者は社会復帰ができないまま療養所で暮らし続けました。回復者は、現在も数多く療養所で暮らしています。(一番多かった時期は2000人以上の入所者がいましたが、現在の入所者は300人弱、平均年齢は80代、平均入所年数は50年を超えるのだそうです)

ハンセン病による差別の背景には、伝染病であること、見た目が変わること、そして政府によって誤って流布された”強い感染力”説も大きいそうです。実際には、伝染病ではありますが、ハンセン病の菌の感染力は非常に弱く、普通の人なら感染しても自然に治癒して発症しないということも多いのだそうです。しかし、貧困・不衛生な環境・体力の低下などの条件が重なると発症してしまいます。(それらの理由から、苛酷な環境で暮らした在日朝鮮人たちがハンセン病患者に占める割合が多かったそうです)

日本では現在、新規のハンセン病患者は年間数人に留まっていますし、発症したとしても完全に治る病気ですが、世界ではインドなどハンセン病患者がいまだに多い国は珍しくありません。

平成6年に「らい予防法の廃止に関する法律」が施行されるまでの長い間、日本では「らい予防法」によってハンセン病患者・回復者たちの隔離政策が続けられてきました。有名な「らい予防法違憲国家賠償訴訟」(2001年判決)では、「らい予防法」は憲法に違反することが認められ、原告全面勝訴の判決が下されました。

違憲状態と認められた国のハンセン病政策でしたが、社会の偏見はいまだ根強く、2003年には熊本県のホテルが、ハンセン病の元患者の宿泊を拒否した事件も起きています。

・・・以上が、駆け足ではありますが、ハンセン病についての簡単な説明でした。

歴史館に展示されている資料はどれも、ハンセン病が歩んできた独特の歴史が反映されているようでした。

歴史館には、”隔離”のための様々な方策が展示されていました。島からの脱走を防ぐために、島内には脱走を試みた人たちを収容する監房があり、お金も島内でしか使えない特殊な紙幣が使われていました。心に潤いと安らぎをもたらすとして(←満足して逃走も少なくなる)、患者同士の結婚は奨励されましたが、子どもを持つことは許されず、男性には断種、女性には堕胎が強要されていたそうです。(患者自身も、子どもが社会的に差別されるのを恐れて、子どもを持つことを断念した人も)

監房。びっくりするぐらい小さな建物です。
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上から見たいと思い、登ってみましたが、既に塞がれていました。
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館内写真撮影禁止だったので、実物をお見せできなくて残念ですが、入所者たちの作品も展示されていました。強制的に隔離され、島内での肉体労働にも従事させられていましたが(←それにより病気が悪化したり、末梢神経の障がいにより手足の感覚が麻痺しているがために、事故や怪我も多かったそうです)、一方、入所者たちは、何かにひたすら打ちこむ時間を持つこともできました。様々な趣味のクラブが存在し、陶芸、絵画、俳句など、全国大会で入賞するほどのレベル。ゲートボールでは、日本一に輝いたそうです。

幼くしてハンセン病にかかり、この島へ連れてこられた人も多くいました。そのため、島内には学校もありました。患者のうち、教職経験のある人が先生として教えることもありましたが、島外から患者でない教職者が来て教えてもいました。感染を防ぐため、先生は白衣を身に付け、生徒から受け取るものは全て消毒、職員室への生徒の入室は禁じられていました。歴史館では、生徒と先生を隔てる”壁”について、生徒たちの苦しい感情を綴った作文も展示されていました。

私は、展示によって初めて”無らい県運動”という運動が、かつてあったことを知りました。これは、1930年代以降の日本で、ハンセン病患者を摘発し、ハンセン病患者施設に強制収容させて、県内からハンセン病患者を無くそう、という目的で行われた社会運動のことです。

ハンセン病=貧しい国で起こる病気というイメージから、自分の国に、自分の県にハンセン病患者がいることを”恥”・”不浄”として、患者を見つけ次第強制的に隔離するという運動です。それによって、収容所に送られる患者が増え、収容所がパンクしそうになると、今度は「文明国にライなし! 十坪住宅運動」というスローガンを掲げ、国だけでなく、各種の公共団体、学校、宗教団体、市民団体なども協力して募金を集め、収容施設を拡大していったそうです。当時の市民は、善いことをしていると思ってけなげに募金を集めていたのでしょうけれど、それが逆に患者、そして患者の家族の人権を踏みにじってきたという側面があります。

歴史館では、婦人団体が「無らい県運動」の募金集めに使ったかばんなどが展示されていました。

歴史館の見学後は、島内を市場さんに車で案内してもらいました。

かつての船着場(収容桟橋)近辺
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「回春寮」。なぜこのような名前が付けられたのかは不明ですが、患者が強制収容される際、船で島に渡ってきてまず収容されたのがこの建物。消毒風呂への入浴、現金などの禁止物品の取り上げ、持ち物の消毒、入所手続きなどが行われました。
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「回春寮」の中の様子。消毒風呂もそのまま残っていました。
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廊下
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建物はかなり傷んだ状態のまま放置されている感じです。
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ひとつだけベッドがぽつんとありました。当時はずらっと並んでいたのかもしれません。
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島内では、あちこちに仮設住宅のような長屋住宅が並んでいます。それぞれ「○○寮」と名前が付けられて、島内に点在しています。
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建てられた年代により、新しいものも、古いものも見受けられます。古いものは、かなり空き家が目立っていました(入所者の数は最大の頃の10分の1なので)。以下は島内各地でランダムに撮影した住宅の様子です。
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在日朝鮮人で、ハンセン病回復者の金泰九(キムテグ)さんの半生を描いたドキュメンタリー映画「虎ハ眠ラズ」を前日に観ていたので、ぜひ金さんにお会いしたかったのですが、残念ながらお留守でした。

金さん宅の玄関(金子利幸はキムさんの日本名)
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住居と庭の様子
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納骨堂にも行きました。ハンセン病に対する偏見や差別の目は、患者だけでなく、家族まで巻き込んでしまったため、遺骨を引き取ることも難しくしてしまいました。無縁仏にならないよう、1934年に初代の納骨堂が建てられました。現在の納骨堂は、2002年に更新築されたもの。

納骨堂。この中には、亡くなってもなお故郷に帰れない、約3500柱もの遺骨が眠っているそうです。
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島内には、あちらこちらにスピーカーが設置され、ラジオが流れていました。これは、ハンセン病の後遺症で、目が見えない人が多いために設置されていると聞きました。昔は風で回る鈴のようなものが置かれていたそうです。
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かつての高校にも行きました。1955年に創立した岡山県立邑久高等学校新良田教室です。閉校までの32年間に、卒業生は307名を超え、内73パーセントの人が社会復帰を果たしたそうです。
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閉校時に建てられた「希望」の碑
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かつて校庭だった場所は、グラウンドゴルフの練習場に。かつて日本一にまで輝いたゲートボール(団体競技)は、入所者の高齢化のためにできず、個人プレーのグラウンドゴルフが現在の主流だそうです。ゲートボール自体、お年寄りのスポーツという感じがするのですが、それも団体ではできなくなってしまうぐらい高齢化が進んでいるのだ、ということが伝わってきました。
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かつての校舎
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長くそのまま放置されたためか、床が一部陥没するぐらい傷んでいました。
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所々に残る”学校”の面影
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黒板には、かつての卒業生が書いたと思われるメッセージが沢山ありました。この学校自体が様々な問題や矛盾を抱えていたとはいえ、やはり自分の母校がなくなってしまうというのは、寂しいもの。
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体育館。こちらは入所者たちのレクリエーション施設として、現在も使われているそうです。
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島内を車で回りながら、私はある種の”町の原型”を考えていました。強制収容で人工的に作られた”町”ではあるものの、すでに80年を超える”まちづくり”(語弊はありますが)の歴史があるのです。住宅だけではなく、学校、商店、役所、病院、公民館、お墓、あらゆる宗教のお寺など、”町”に必要なものがコンパクトに全て兼ね備わっているのです。現在は入所者たちの平均年齢は80を超え、”ハイパー高齢化社会”でもあります。極端に高齢化したこの町の取り組みは、参考になる部分も多いのでは?と考えました。

商店
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現場は見られませんでしたが、この島には「自殺の崖」と呼ばれる場所があるそうです。社会から隔離され、差別を受け、後遺症に悩まされる日々の中、人生を悲観して自殺する人も多くいました。

そんな状況の中、宗教に救いを見出す人も多かったのか、島内には島の面積や人口密度に不釣合いなほど、あらゆる宗教・宗派が寺院や教会を構えています。
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「寺町」の看板まで! ずらりと様々な仏教の宗派が並びます。各宗派がこれほど密接して立ち並ぶ様は、なかなか他所では見られないのではないでしょうか?
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さて、そもそもこの日長島を訪れた一番の目的は、市場さんの知り合いの住職さんが隔月で開催している勉強会に、講師として呼ばれたことにありました。ハンセン病と、市場さんの専門分野であるDVなどを絡めて話して欲しいと依頼されたということでした。

お昼近くになり、長島愛生園を過ぎて、同じ長島内にある別の国立療養所・邑久光明園へ向かいました。(上の寺町写真は、順番が前後してしまいましたが邑久光明園で撮影したものです)

光明園に入所されている、回復者の吉田さんのお宅を訪ね、そこでお昼ご飯をいただきました。差別を恐れ、入所の際に名前を変える入所者も少なくなかった中、吉田さんは本名を使い続け、生まれ故郷も度々訪れています。同じく回復者の奥さんと結婚され、この島に住み続けています。奥さんが要介護状態で、介護が受けられるこの棟に移ってきました。

介護付き住宅棟
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手押し車や電動三輪車があちこちに停めてありました。
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外から見ると、普通の長屋タイプの住宅に見えますが、玄関側(廊下側)は建物内の中にあり、介護施設と繋がっています。介護を受けやすく、介護をするほうもしやすく・・・を考えた造りになっています。

廊下側の様子
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介護施設棟と一体型になっています。
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吉田さんのお宅
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吉田さん(前列向かって左)と、市場さんたちと
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おうちの中の様子
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台所
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非常用のブザー
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お昼ごはんの後は、真宗大谷派のお寺に向かいました。市場さんは「戦争~日本軍性奴隷~強制隔離~DV~原発」と題した講演の中で、韓国の従軍慰安婦の女性を取り上げたビデオを流すため、スクリーンを設置。

祭壇(なんて呼ぶのでしょうか?)の前にスクリーンというのは、様々な場所で上映会をしてきた私にも、初めての体験。不思議な光景です。
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市場さんは、戦争、ハンセン病、原発被災者、DVを横断的に話し、”国家による暴力の構造”がよく分かる構成になっていました。

市場さん(この背景も珍しい感じ。。。講演というよりは、漫談のようhappy01
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市場さんは、講演では必ずギターを持参して歌うのだそうです。参加者も一緒に歌うことで、会場の緊張感がほぐれるのだそうです。この日も、講演の冒頭に、「切手のない贈り物」を歌いました。”歌う講師”の異名を持つだけあり、ギターも歌もとても心地よかったです。歌う市場さんの映像はこちら(約4分)。デジカメの動画機能で撮影したものなので、画質は粗いですが、雰囲気は伝わるかと。

DVD「私たちは忘れない~追悼:姜徳景さん」の上映
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参加者は、男性の方がやや多いという状態でしたが、反応は女性の方が断然強かったです。特にDVなど、身体的暴力だけでないDVについての話もあったので、男性の中には(あれはDVになってしまうのか・・・?)など、ふとわが身を振り返ってしまったと、市場さんは講演後に感想を聞いたそうです。

仏の道を求める人たちとはいえ、宗教界は(宗教界も、というべきか)ピラミッド型社会で、圧倒的に男性中心の世界です。講演のあとの交流会で偶然隣に座った女性からは、真宗大谷派内における男女の格差についてのお話を聞きました。

これまで、女性は住職にはなれませんでしたが、長い運動の結果、女性でも住職になれる道が開けたそうです。しかし、制度だけを作っても、そのほかの環境が整備されていないのであれば、日本企業で管理職の女性がいまだに数パーセントしかいないのと同様、結局は住職にはなれません。

制度だけではダメなのだ、と訴えても、「制度があるのになぜ?」(=解決済みの問題)となかなか理解してもらえず、今後どうやって女性住職を実際に増やしていく方向に変えていけるのか、模索しているということでした。

また、現在のお寺事情も聞きました。”専業”の住職は、(大谷派限定の話かどうかは分かりませんが)、1割程度に過ぎないというのに、びっくりしました。大きなお寺は別として、全国的には檀家が減り、お寺だけでは食べていくことが難しいので、大抵はサラリーマン、教師、公務員などをやりながら、住職の仕事を続けているそうです。

仏教の宗派の中では、大谷派はわりとリベラルなほうで、妻帯OK、髪は丸坊主でなくても構いません。人権・平和問題にも積極的に取り組んでおり、イラク戦争開始時にはいち早く反対の声明を発表したそうです。(一方で、国内の「死刑制度廃止」などに関しては、なかなか大谷派全体としては声明を発表しづらく、どこのレベル(部署)で声明を出すかが検討されるなど、難しいお家事情も抱えているそうです。現在はどうなのでしょうね? また詳しく聞いてみたいです)

交流会の様子
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講演会終了後、邑久光明園を出発し、長島を出ました。

橋を渡ります。
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車で、備前にある市場さんのお友達のカフェに行きました。

カフェ・ランバー
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もとは材木屋さんだったそうで、店内も木がふんだんに使われています。
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お店のホームページはないようで残念ですが、行ったことのある人たちがブログで写真などを載せているサイトはいくつもありました。私たちは夕方に行ったので無理でしたが、ランチがとても美味しそう! 例えばこのサイトにランチ写真があります。500円でこの内容は格安!

展示も行われていました。
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大工さんの時計、かわいい!
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カップもステキ
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市場さんとカフェのマスター(うわぁ、名前を失念してしまいました・・・coldsweats02)。20数年来のお友達なんですって!
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備前出身の現代アーティスト、林三從(はやしみより・故人)さんの話になりました。11月10日から12月9日まで、岡山県勝田郡の奈義町にある「奈義町現代美術館ギャラリー」で「林三從展~みよりが遺したもの~」が開催されているそうです。詳しくはこちら
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ホームページにある展示の解説を以下に紹介します。
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林三從は、岡山県備前市を中心に1950年代後半から2000年に掛けて先鋭的な芸術活動を展開した女流芸術家です。

林は岡山で若手グループ等に参加し、60年代には東京で個展を開催。その頃出会った国際的な芸術家たちとの交流を通して70年代には数々のアート・イベントを企画していくなかに音楽や演劇とのコラボレーションを拡大させながら、80年代以降はアート・イベントの走りになった「備前アートイヴェント」の企画・運営を10年間続けながら、絵画、立体、パフォーマンス、アート・イベントなどジャンルを越えた独自のマルチな活動路線を生涯にわたって追求していきました。

林三從が2000年12月28日に亡くなって今年が13回忌になります。

本展は、人生のすべてをアートに捧げ先駆的な役割を果たした林が生前遺した豊富な作品や資料を紹介していくことで、林三從の活動の軌跡をあらためて紐解いていくものです。

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保守的な土地柄の備前で、林さんはとても特異な存在であっただろうと想像します。でも一方で、保守的な土地だからこそ、抑圧に反発するエネルギーは更に強くなるのだろうし、抑圧をはねのけて飛び出してくる人のエネルギーはものすごいのではないか?という話にもなりました。確かに、ランバーのご主人といい、保守的な地域の中でも活動を続けている人たちのパワフルさはすごいです。

市場さんは、林さんの生前、シンポジウムのパネリストとして林さんと登壇したことがあったそうですが、当時の印象は「何をしている人か良くわからなかった」そうですhappy01。1933年に生まれ、先駆的な現代アーティストとして、そしてレズビアンであることを公言してこの時代を生きてきたという林三從さん。一体どんな人だったのでしょう? とても興味があります。(林さんが存命だったなら、浜野佐知さんとかが映画に撮っていそう!)。

興味のある人は、是非展示に行ってみてください。東京にも巡回してほしいなぁ!

お店の前で。お店の壁面に描かれた、木の根っこからひょっこりと顔を出している少女は、マスターなのだそうです! ご本人と共にhappy01
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気がつくともう結構な時間で、夜8時の飛行機で東京に戻る私は、そろそろ帰り支度を始めなければならないのでした。ランバーを離れ、車で市場さんのご自宅へ向かいます。晩御飯をいただき、かばんを車に積んで、岡山空港に向かいます。

空港へ向かう道中、岡山の反原発パレード(デモではなくパレードと呼ぶのだそうです)の話になりました。パレードの中心は、旧来の労働組合型ではなく、個人で参加する若者や、避難して来た人たちで、新しいタイプの運動とネットワークが広がっているということでした。その点については、東京も似ていると思いますが、違うのはパレードには必ずと言っていいほど、”露店”もあるということ。パレードの際には、様々な出店が出て、オーガニックのパン、クッキーやアクセサリーなどが買えたりして、楽しいのだそうです。

東京のデモで、露店のストールが並ぶ光景は、これまでに見かけたことがありません。(私が知らないだけかもしれませんが)。デモの集合・解散場所としてさえ、日比谷公園の使用を許可しなかったぐらいですから、さらに露店も出すというのは、かなりハードルが高そう。。。

お話をしていたら、あっという間に岡山空港で、無事飛行機の時間にも間に合いました。前半は岡山映画祭、そして後半は市場さんに大変お世話になりました。今回出会えた人たちとのつながりを、大事にしたいとつくづく思いました。どうもありがとうございました!

追伸:
最終日のブログを書くのに、文字通り1日かかってしまいました。朝から書き始めて、今はもう夕方です。多分これまでで一番長いかもしれません! 最後まで読んでくださった方、どうもありがとうございます&お疲れ様でしたhappy02

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